Saturday, September 30, 2006

理屈なしに

日本行きがだんだんと迫って来ている。
今回は沖縄から青森までと広範囲にわたって行きます。
日本国内だけでも、空の旅,船の旅、汽車の旅と変化に飛んでいる。
天候に左右されて目的地に行けないところが、或いは帰って来れない所が
あるのではないかと心配している。

もっと心配なのは、保育園児との時間が30分ほどあることだ。
もうパニック状態に近い状態になっている。
一度幼稚園児にいきなり、話してくれと頼まれて5分ほどやったが、もう
限界だった。あの経験が頭に焼き付いている。

今日、近くにある保育園に見学に行ってきた。金曜日はチャペル・タイムが
あるので、知り合いの先生が来なさいと言って下さった。
驚いた事に先生方が9人おられたが、一人の東洋人の先生を除いて50代
60代のご婦人ばかりであった。その代わり皆ベテランのクリスチャン先生。
子供達の扱いもやはり若い先生とは違うのかよく言う事を聞く。

主任の先生が歌をリードし、聖書の話を本を使いながら興味深く話された。
思ったほどガヤガヤせず、殆どの園児が話に集中していた。
日本でこんなに旨く行くだろうかとの心配はある。何しろ日本の先生方は
みなさん若いと聞いている。

話は違うがアメリカの航空会社の女性乗務員はお年を召したベテランの方が
多い。それだけ大切な仕事なのだろう。客の言いなりには絶対ならない。
客に命令している場面を見る事がある。それだけ権威を持ってやっているの
だろう。貫禄があって頼もしい。

保育園や幼稚園の先生方も大切な真っ白な心を持った子供達にはベテランの
先生が必要なのかも知れない。ただ子供達が楽しく過ごすだけでは駄目なの
だ。子供達も先生を尊敬し畏れ、先生方も厳しい中で愛と威厳を持って教え
なければならない。

保育園でも、幼稚園でも理屈なしに「駄目なものは駄目」と権威を持って
言える人が求められている時代でもある。

Thursday, September 28, 2006

エッ、違うの!?

8月にプラハで開かれた国際天文学会議で今までの定説であった太陽系の惑
星の定義が変えられた。「水金地火木土天海冥」と小学生のころ一生懸命覚
えさせられた惑星の名前から冥王星が取り除かれた。
学校で今迄習ってきたものが変ったのだ。まるで戦後、教科書に真っ黒の墨
で都合の悪いところを全部消し去ったような事件だ。
今まで学習してきたものがある意味では間違いであったと宣言しているよう
だ。
しかし、私は喜んでいる。心の底から、喜びが沸々と湧き出てくるのを禁じ
得ない。

人間のちっぽけな脳味噌で、宇宙の事が判ると思うのがおかしい、と常々思
っていたからだ。果てしなく広がる宇宙を究明するのは人間が存在する限り、
永遠の課題だと思う。

天地万物を創造し、永遠から永遠に存在され、始めであり終わりあり、
アルファでありオメガである神という偉大な方がいると心から信じているか
ら、人間が時代時代に新しい事実(すでに存在しているもの)を発見して行
く過程において、進化論が間違いであり創造論が正しいと決定されるのも近
いと信じている。
人類はこの事実を謙遜に受け止めてゆくべきだ。
まだあまりよく解っていないのだから、何もかも。

少なくとも、ボクの先祖が猿であってたまるか!! と声を大にして叫びたい。

心を整える

先週売り家を見に行くチャンスがあった。
我が家から比べたら、どこも立派な家ばかりだった。
特に感心したのは、まだそこに住んでおられる家を見たケースでは、実に
整理整頓が行き届いており、気持ちが良い。
余分なものは一切テーブルや机の上には置いていない。最もオープンハウス
をしている訳だから普段より綺麗にしているとは思うが、それでも整理が
行き届いているのには舌を巻くほどだ。

あ~ぁ、我が家のナント乱雑なことか。掃除は家内が神経質なくらいしてい
るが、整理整頓はボクも家内も大の苦手。
ボクなどは何でも見えるところに置いていないと気が休まらない。
これから少し見習って整理をしようとは思うのだが・・・どうだろうか。

昨日、あるクリスチャン月刊雑誌を読んでいた時、ある国の台頭が目覚しく、
世界はこれから一体どこを向いてゆくのだろうか、考えさせられ恐ろしくも
なった。

世の終末が叫ばれて久しい。
でも何時、終末が来るか解らないがその兆候は世界的にある。
聖書には「夜、盗人が来る様にやってくる」とある。
何の予告もなしにやってくると言うことだ。

世の終わりは何時来ても良いように用意はしておかなければならない。
実に切実な問題なのだ。

と言う事は、心の整理がもっと大切だと、ちょっと慌てている。
これでよいのだろうか!?

心を整えておくべし!!

Wednesday, September 27, 2006

力いっぱいやろう

慌しい毎日である。慌しいが、体はじっとしている。
日本行きが後1週間、原稿の準備に追われている。
留守の間の事と日本の3週間での用意。もうてんてこ舞いの状態。
一体いくつ用意すればよいのか。
気が狂いそうになる。

ところが今日日本からある牧師からメールが入ってきた。
10日間ほど我が家に逗留され、少しの間だが、日本での忙しさから解放さ
れておられた。その間にも日本に送る原稿書きをしておられたが、日本に
いる時の比ではない位、ゆっくりさせていただいていると仰っていた。
今日のメールではもう完全に日本モードになったのこと。
ボクの忙しさから比べたら、多分3倍の量をこなしておられる。
その凄さに驚きと同時に、凄い才能だなぁ、と感心しきり。
だってその3倍の量をこなしておられるのだから、もう人間業とは思えない。

それにしても日本は忙しすぎる。
ボクの忙しさなど、子どものようなものだ。
でもボクに見合った才能内での量をこなさせていただいている。
これで良い。

とにかく精一杯の事をしよう。
一生懸命にしよう。
ボクにはボクなりに与えられているものがあるのだから。
力いっぱいやろう。

Tuesday, September 26, 2006

「嘘をついてはならない」

「豚マン食べたぁ~?」と家内の疑わしそうな声がキッチン一杯に響く。
昨日病院からの帰りに近くでとても評判の中華料理店の豚マンを8つ買って
帰ったものだ。
聞こえないフリをしたが、再度聞かれたので、「う・う・ん」と否定語に聞
こえる返事をする。
明らかに嘘なのだ。実は夕べ余りお腹が減ったので、夜中の12時ごろそっ
と食べた。家内からは常日頃9時過ぎには何も食べないようにと言われてい
る。それについ先々週から糖尿の薬を飲み始めたばかりだから、食べものに
は気をつけなければならないのだ。

嘘をつくのは、どんな小さな嘘も苦しい。ボクの嘘によって誰かが疑われる
のだ。家内もボクも食べていないとしたら、あとは一人しかいないから、
明らかに家内はその一人を疑うだろう。大きな罪を犯してしまった。
家内の機嫌のよい時に告白しよう。

聖書にも「偽証してはならない」とある。大きな嘘も小さな嘘も神様の前
では皆同じことだ。
つい最近も家内と偽証の事について話し合ったばかりだ。
ある人が法廷で明らかに真実ではない事をあたかも真実のように言ったと
いう事を聞いたばかりだ。その人は神を信じている人、だから神の前で偽
証罪に問われる。人は誤魔化せても神は全てをご存知である。
その人には平安がないだろうな、と察する。

やはりすぐに家内には正直に豚マンを食べた事を白状しよう。
ギャンギャン言われた挙句、呆れられるだろうなぁ。

Monday, September 25, 2006

病院でのこと

今日は朝早くから病院に検査に行ってきた。
Arterial Doppler StudyとCarotid Dduplex Scanで二つとも血管に関する
ものであった。
どうも血の巡りが悪いらしい。
足、腕、それに首とそれぞれ二つのデパートメントで検査。結果は如何に。

近頃は医療技術も随分と発達していて、本当に素晴らしい。
ただ機械も人が考え出したものであるから、完全ではない。
不完全な人間が作ったものに完全なものはあり得ない。

約束の時間より30分も前に行き、受付で名前を言うもボクの名前が見当
たらない。あちらこちら分厚いページをめくりながら、受付嬢も首をかし
げている。先週の金曜日にPre-registrationに来たばかりなのに。
しかもご丁寧に翌日には病院から何時に来なさいとわざわざ電話までして
きたのだ。とにかく座って待ってろといわれ30分ほど待たされた。
やっと名前が呼ばれ、今度は違う窓口に行くと、「今日は何しに来た」と
いきなり言われ、面食らう。「エー、勘弁してくれ」と叫びたくなるも
じっと我慢。もう一度「先週の金曜日にこの窓口でレジストレーションを
済ませた」と言うと、やおらコンピューターを見てくれ、名前を見出し
不安からやっと解放された。
後はすべて非常にスムース(これが普通なのだが)。

以前にもドキッとさせられるような事があったので、今日はまだ良い方。
人のする事は完全ではないが、細心の注意をしないと、病院での事は人の
命に関わる事を扱うので、大変な結果になりかねない。

そう言えば、教会も同じようなものか。
牧師も細心の注意を払い過ぎると言うことはないくらい、気をつけなければ
ならない。間違いは赦されないのが普通なのだが、ボクは本当に間違いをよ
くする。教会員の方は忍耐をよく学ばれる。
その点、恵まれた牧師だ。
感謝している。

畑の真ん中で

2日遅れだが、土曜日の結婚式の事がまだ脳裏に鮮明に残っている。

25エーカーもある畑の真ん中にBarn(納屋)があって、人口の池、などがあ
る。その池の前に130席ほどの椅子を並べ、様々な衣装を着たゲスト達が
式を待ち構える。
アメリカ人男性の浴衣姿、どこで仕入れてきたのか、これまたアメリカ人の
虚無僧姿、オーケストラの指揮者のようなフォーマルの燕尾服、日本人女性
たちの着物、子どもまで着物を着ている。
バイオリンとギターの演奏・・・。
それぞれ思い思いのスタイルがいかにもアメリカらしい。自由でよい。
中にはビールを飲みながら、参列していた男性も一人いた。

花で作った円形アーチの後ろに二人の牧師が、アーチの下に花嫁花婿が立ち
その両側にメード・オブ・オナーの女性たち、ベストマン達やアッシャーが。
午後3時半、太陽がまぶしく照り付けるが、誰一人動かない。
Barnのオーナーが挨拶、牧師の祈りから始まり、広々とした畑の中が聖な
るところと変えられてゆく。

ボクは聖餐式を受け持った。結婚式で聖餐式は初めての経験だが、夫婦と
宣言された二人が共に始めて食する食事と固い信仰の絆を聖なる神の前で
表す聖餐式。
深い意味を味わうことの出来た感動の式であった。

ボクは自前のローブを始めて、しかも炎天下の元で着たものだから、汗が
びっしょりで眩暈がするほどであった。
無事大役を果たせてホッとしている。

その後、延々とレセプションが続いたようだが、日曜の用意のため早々と
失礼した。
お陰で記念写真に牧師が一人抜けた形になったらしい。
こんなへまなオチのあった結婚式でもあった。

Friday, September 22, 2006

宴の人生

明日は嬉しい日だ。
花嫁になる彼女は去年洗礼式、今年は結婚。
2時間かけて明日のリハーサルに行って来た。
司式をする牧師は2人、アメリカ人の牧師と日本人牧師。
花嫁が日本人、花婿がアメリカ人。
花婿側のベストマンやアッシャーたちはすべてアメリカ人。
方や花嫁側はオール・ジャパニーズ。
まさに「East meets West」。
日本語と英語の式次第。花嫁のご両親とお兄さん夫妻が日本から来られ、
ニューヨーク、ポートランド、フレスノ、と色々なところから親類、友人
知人が駆けつけてくる。お祝いの宴が明日始まる。

牧師は二人とも同じ年でボクの方が3ケ月早い兄貴分。しかし見てくれは
向こうの方がウンと年上に見える(父と子?)。
キャリヤから言えば、彼の方が遥かに上で、彼は42年のキャリア、ボクは
たったの7年。

短い時間に色々な事を話し合った。
おめでたい行事では皆の心がワクワクしているのだろう。
人生すべからく、どんな時にも、楽しくありたいものだ。
Jesus と一緒に歩く道は、婚姻の宴のようだ。

Thursday, September 21, 2006

手順違い

お客様を見送りに空港に行った。
近頃やっと、慣れては来たものの、あのセキュリティーチェックには戸惑う。
日本の航空会社にまず行く。セキュリティーチェックに行きカウンターまで
荷物をAPSと背中に文字の入ったシャツを着た会社の人間が運んでくれる。
乗客は荷物に一切手を触れてはならない。カウンターでチェックイン、搭乗
券を貰ってゲートへ。これが手順。
次にもう一人の人とSという中国系航空会社に行き、まず、セキュリティー
チェックを済ませカウンターに行く。そこまではOK。で、カウンターはま
だ早すぎて空いていないので暫く待つ。ボクがそこらをうろついている地上
員に、何時にカウンターが空くのか聞くと、後10分ほどある。
ところが彼は列はここではない、向こうだと指差す方を見ると大分人が並ん
でいる。そこで彼に、いやボク達はもうすでに荷物検査したから、と言うと、
いや、まず、航空会社のカウンターで荷物をチェックインして、搭乗券を貰
い、荷物をまたセキュリティーチェックに持って行ってそれでゲートに行け、
と言う。と言う事はボク達がやった事はすべて無駄でもう一度最初からやり
直しと言うことだ。先ほどとは手順が全く逆なのだ。

それにしてもあそこで並んでいた人達はそれを最初から知っていたのだろう
か。それが知りたかった。誰にも聞かなかったけれど。バカかと思われたく
ないと言う気持ちが多少はあったからだ。
それにしても航空会社によって、手順が違うと言うのはややこしくていけな
い。送って行く地元の者は知ったかぶりをして、日本の方に教える事が出来
ない。大したお面でもないのに、今日は面子が潰れた。

人との触れ合い

今日お客様が2組日本にお帰りになる。
一人はこの3ケ月間泊まってくださって家のことや教会の事を色々とお手伝
いして下さった方。
もう一組は10日間逗留してくださった牧師夫妻。
遠方よりお客様をお迎えするのは私達の喜びです。
牧師先生ご夫妻と親しくこのようにお交わり出来るのは嬉しいことです。
普段は講壇の上と下とで、余り交流はないし、よそよそしい関係にあっても、
深いところで人間的な関係を持つ事はお互いが癒される部分が沢山ある。
本音で語り合えることは素晴らしいことであることも体験させていただいた。

人間はどんな立場にある人でも人と人との触れ合いがなければ、人間味の
あるお付き合いは出来ない。そこでは特に失敗談に花が咲く。失敗談や挫折
体験を赤裸々に話し合うと、何故かホッとする安心感とある種の開放感を味
わう。
「胸襟を開く」と言う言葉があるとおり、仮面を脱ぎ捨てて付き合うと ころに
信頼感が生まれる。
こうやってかけがえのない生涯の友を得る事が出来るのだなぁと思う。
だからお客様をお迎えするのはある意味では特権でもあると言える。

感謝感謝。

Tuesday, September 19, 2006

世界食料デー

今日一日は「食べ通し」の日のような感じの一日でした。
朝は7時にBreakfastミーティングを典型的なアメリカのレストランで、昼
はLunchミーティングをメキシコ・レストラン、Dinnerのおよばれは日本
食と、何とリッチな「食」の日だったことか。

昔、フランスのサバランという有名な食通が、「いつも食べているものを知
ればその人間がわかる。」と言うようなことを言っていたとある本に書いて
あるが、或いはそうであるかも知れない。

「食」は大切なもの、一生の間にどれだけの違った食べ物、或いは量を食べ
るか計算すると、恐ろしいほど食べているに違いない。

こうやって、毎日食べられることの幸せを噛み締めなければならない。
余りにも日常のことで慣れてしまうと、思いやる事を忘れる。

毎年10月16日は「世界食料デー」として国連が食糧問題を考える日とし
て制定しました。
世界の一人一人が協力し合い、「すべての人に食料を」を現実のものにし、
世界に広がる栄養不良、飢餓、極度の貧困を解決する事を目的としています。

今世界では、一日一食のご飯が食べられれば“幸せ”という人々が沢山いま
す。あなたが、一か月分の一食を倹約して協力すれば、その国の人々は一食
分で約一ヶ月間も食事ができ、あなたが出来る倹約の範囲で3㌦(300円)
5㌦(500円)でも、或いは10㌦(1000円)でも協力すれば、どれほどの
人々を助ける事が出来るだろうか。

今日はちょっと食べる事に余りにも無神経になりすぎて罪悪感さえ覚える。
「世界食料デー」の事を思い出した日でもありました。

Monday, September 18, 2006

忠犬、JJ

いきなりドサッとベッドの上に何かが落っこちてきた。
せっかくの寝入りばなだったのに、驚いて薄目を開けたら、ジェイジェイ
(うちの4歳の飼い犬)がベッドに乗っかってきた。
この一年間娘が毎日ジェイジェイを部屋に入れて一緒に寝ていたのです。
昨日娘が引っ越していった。どうもジェイジェイの様子がおかしく落ち着き
がなかった。ボクのベッドを娘の部屋に移したのを知ってか知らずか、夜中
に部屋に入れろと家内のベッドの窓のところをガリガリとやっていたらしい。
お陰で寝苦しく、安眠できない夜を過ごした。

娘が引っ越したのを一番淋しく悲しく思っているのは、実はジェイジェイか
も知れない。
犬は優しく忠実だ。
これくらいの忠実さを近頃、人間社会ではあまりお目にかからない、うちの
教会員を除いて。

何か人間に足りないものを犬に見たような気がする。

Sunday, September 17, 2006

ああ、淋しい

娘が再び家を出た。
一年だけと言う契約だったが、ガランとした部屋を見ると無性に淋しさがこ
たえる。
男の子と違って、娘は何かと心強く、頼もしいのだ、親父にとって。
子供達の中で一番しっかりしているし、甲斐性がある。

息子も引越しの手伝いに駆けつけるし、ボーイフレンドもまめまめしく動いて
くれる。
親は何一つしない。
只じっと見ているだけ、箱一つ動かさない、いや動かしたくない。動かすも
のかと虚勢を張る。親父なんて可愛いもんさ。

娘は気を利かせて家からいつも15分以内のところにいる。
今度もそうだ。町は違うが15分で飛んで来られる。
親が心配らしい。そんなに年でもないのに。
でもその心遣いが嬉しい。

娘よありがとう。

Saturday, September 16, 2006

楽しきガレージセール

家でガレージセールをやった。
これは恒例の教会行事でもある。子供達の修養会などに出来るだけ費用が
掛からないようにとファンドレージングを年に何度かする。

教会の人たちが色々なものを持って来て下さる。
古いものや、まだ新しいものまで。電気製品から服に至るまで、丁度家の
整理になっても良いのだろう、実の多くのものが集まる。

教会では、「では何日にしましょう」と決めるだけで誰がナニ係りなんて
決めない。いや、正確には決めるのを忘れるのです。詰めが甘いと言うか
ぎりぎりになって、「つり銭誰が用意するの?」「準備に誰が来てくれる?」
「最後の後片付けには誰が残ってくれるの?」と前日になって慌てる。
蓋を開けるまで何が起こるか全く解らない。でも確実に蓋は開けられる。

ところがいざその日の朝になると、全てが順調に行くから不思議だ。
食べ物まで持って来て下さる。
値段ツケの上手な人が何人かいて、その人達が適当に値段をつける。
台湾人の中年婦人の方がスーツケースを買いたいとボクに言ってきた。
適当に、いや、でまかせに、「10ドルです」「ふ~ん、6ドル!!」「いやこれ
はまだ3回しか使ってないから10ドルです」。
3回使ったなんてどうして知っているかと言うと、全然知らないのです。
ただ小さなリボンが3ツ付いていたから、3回旅行したのだなと判断した
だけ。「まだ新しいよ、10ドルからまからないよ」
「ちょっと便所貸してくれないか」(エッ?)と内心思ったが、どうぞと
言って家に招じ入れた。
すぐ出てきてまた続きをやる。「では8ドルではどうか」とボク。
「いや、6ドル!!」といって6ドル置いて行った。

いや~、ボクだったら便所まで借りたのだから、10ドルは置いてゆくけど
な~と・・・、これも文化の違いか。で、致し方なく6ドルで手を打った。

ある国に行ったら、便所のところに人が立っていて、手拭を渡してくれる
仕組みになっていて、その人にチップを渡す。
人の家の便所まで使って(しかも只で)、値切って行った豪傑婦人に頭が
下がる。
台湾にも「ナントカ パワー」があるのだ。

Friday, September 15, 2006

ユダヤ人博物館

今日、Museum of Tolerance(寛容の博物館)と言うユダヤ人の博物館に行
き非常に感銘を受けた。
勿論ホロコーストの事を展示してある訳ですが、まず施設が立派です。
入って出るまでひとつのテーマがあります。それは「憎しみのもたらす結果」
と言う事です。

「マミー、これ買って!!!」と子どもがすねたとします。お母さんが「マミー
の言う事を聞かない子は嫌いよ!!」とよく言います。
言論の自由ですからこれが赦されます。
ところが大勢の人が「お前は嫌いだ!!」と言ったらどうでしょうか。
これは集団的いじめでもあり、差別であり、或いは軽犯罪になるかも知れま
せん。
その様にだんだんと「憎しみ」「憎悪」がエスカレートして殺人になり、
それの究極がテロとなります、と言うところから始まる。

最初の扉が二つあって、一つにPrejudiced(偏見を持っている人の扉)、もう
一つにUnprejudiced(偏見を持っていないと思う人の扉)があり、最初から
試される仕組みになっている。あなたはどちらから入りますか?

言論の自由がどこまで赦されるのかと言う事を考えされる。言論の自由とは
何を言ってもよいのかと言うこと。或いは規制されるべきなのか。
また、我々の身近な所謂ヘイトクライム、人種差別(Hate Crime)から来る
暴行、レイプ、殺人、爆破・襲撃事件、等へと展開、さらに世界の子どもの
何人ぐらいが兵士として戦争に駆り出されていると思うか、内戦により孤児
となった子供達が奴隷として人身売買されていると言う事実があると思うか、
など等、ただ単にユダヤ人600万の虐殺に留まっていない。そこに至るまで
のごく普通の人間が持っている小さな「憎しみ」がもたらす結果を思考させ
る全体的なプログラムは非常に良く出来ている。

どんな些細な「憎しみ」もどのように発展してゆくかわからない。
恐ろしい結末になり兼ねない。

小さな旅でしたが、非常に有意義な時を過ごしました。
世界中を回ってこのような博物館は見ているが、ここのが最高に良く出来て
いますと、同行の黒田禎一郎先生が感心しておられた。お墨付きの物です。
日本語で案内してくれる人がいる、山本真美子さんを指名すればよい。
ちなみに大人料金が$10.00、シニア(62歳以上)$8.00の入場料は価値
がある。

Thursday, September 14, 2006

ホスピタリティー

昨日、台湾人の宣教団体をたずねた。
初対面の私達(日本からの牧師先生ご夫妻を案内)を心からの暖かな歓迎
には驚きを覚える。
その場所に到着し、僕達の車がパーキングに入った時すでにそこの責任者
の方が玄関に立っておられ出迎えてくださった。
その団体は主に中国に色々なキリスト教の資料を無料で送っておられ(北
京語、広東語、英語)随分と大きな働きをしておられる。
DVDを見せていただき、沢山の中国語のDVD、CDを日本にいる中国人
のためにお使いくださいと贈呈して下さった。

昼食を近くの大きな海鮮レストランに連れて行ってくださり、飲茶をご馳走
になった。

台湾からアメリカに留学に来られ南カリフォルニア大学院でビジネスを専攻
された非常に上品な40代の女性は、日本の女性のように私達のお皿にわざ
わざ盛って下さり、しかも取り箸をわざわざウェイターに持って来て貰い、
自家箸が普通の中国式食事も、我々日本人に合わせての気の使いよう。
偉く感心してしまった。
宣教団体に従事しておられる人は、相手国の事をよく知っておられるのだと
ここでも感心。

中国では「食」が文化の中心らしく、日ごろの挨拶も「食事をなさいました
か」と言うらしい。それにいつも家族が大勢一緒のテーブルを囲んでいる姿
は(大体3世代)、家族を大切にしていて、日本人が忘れている家族の絆を、
もう一度考えさせられる。食を共にすると言う事は、信頼と開放感がなけれ
ばならない。
家族を大切にする事は人生の基本だ。そこからあの暖かなホスピタリティー
精神が生まれてくるのだろうな。

とても教えられた一日であったし、暖かな気持ちにさせられた日でもあった。

Jesusはよく初めて会う人々と食事をされた。

Tuesday, September 12, 2006

老いては子に

「老いては子に従え」と言う言葉が近頃このボクにビンビンと響いてくる。
何しろ娘が口うるさいったら、ありゃしない。
昨日も彼女のボーイフレンドが芝生の枯れたところをパッチしてくれた。
なぜだか知らないが、芝生の所々が枯れている。

「なぜ彼一人が仕事してるの。ダディーはボーッと見てるだけで手伝わない
の」
何かの用事のついでに彼にお礼を言ったら、「ダディー、お礼を言うときは
ちゃんとこちらを向いて言うのでしょ」といちいちうるさい。親父にマナー
まで教える。
ふと考えたら、昔々、散々ボクが子供達に言っていたような事を今子供達に
言われている。

チットモ腹が立たないから不思議だ。

Monday, September 11, 2006

汝、殺すなかれ

今日はアメリカ全土が喪に服す日だ。
信じられないような事がニューヨークのマンハッタンで起こった。数千人の
人がほんの数人の人たちによって一瞬のうちに殺された。
戦時下ではないのに・・・

国が憎い、人が憎い、この憎しみを正当化するのに、どんな理由があっても
罪のない人々を殺しても良いという理由にはならない。
聖戦というのか!! とんでもない!! 
どんな宗教でも宗教のために人を無闇に殺すことは奨励していない。
宗教を利用しているだけだ。

宗教に熱心な事はよいことだ。しかし熱心と熱狂とは大いに違う。
熱狂とはまさに「狂う」ほどに意識も理性も何処かに吹き飛んでいる狂信的
状態だ。

「あなたは殺してはいけない」と言う言葉は旧約聖書を信じている人なら
誰でも知っているモーセの律法だ(出エジプト記20章13節)。
「十戒」の第6番目にある。

これを正当化、正義化する言葉は聖書のどこにもないし、神の意図ではない。
人は人を殺してはいけないのだ。殺すことは人間のエゴが偏狂化されたもの
に過ぎないからだ。

「あなたは殺してはいけない」を世界中の人々の合言葉として子供達、孫達
に語り継いで行くのは大人の責任ではないか。

ご遺族の方々のために創造主なる神の深い慰めがありますように。

Sunday, September 10, 2006

日曜日の午後のひと時

今日は日曜。ボクたち牧師職にある人間の一番活躍するときだ。
何しろ一週間頭を悩ましながらこの日のためにメッセージを作りあげる。
準備に何時間も何日もかけ、喋るのはたったの40分程度で終わる。
殆どのメッセージは一生に一回コッキリしか使わない。勿体ないと思うが、
ナカナカ他所で喋るチャンスがあるわけではない。
しかしこの40分に全精力と全霊力を傾ける。話し終わったらクタクタだ。
だから日曜の午後は何もしたくない。ただソファーに寝転がって、ボォーッ
としている。

ただ今日はボクが話したのではなく、ゲストスピーカーだったから疲れがな
く余力があった。

礼拝の後、皆で近くの公園に行ってポットラック・ランチに舌鼓を打った。
大人も子どももリラックスしてゆっくりと出来た午後だった。
年に何度か一緒に青空の下で食事をするのは、ピクニックに行った気分で、
心が晴れやかになって楽しい。子供達も喜ぶ。大人も喜ぶ。
平和なひと時であります。

平和はこんな小さな食事会から始めて行けば良い。
そういえばJesusもよく色々な人たちと食事をした記事が聖書に載っている

Saturday, September 09, 2006

ストレッチ運動を始める

今朝8時から柔軟体操というのか、ストレッチ運動なのか、近くのコーヒー
ショップでやっているので行って来た。
この情報は一ト月ほど前から知っていたが時間の都合で行けなかった。
土曜日は7時から祈り会をやっているからです。
それで皆で相談をして祈り会を30分繰り上げ6時半からに今朝からに変更
した、そう、この体操のために。

家の近くに半年前あたりからVineyaradと言うアメリカのキリスト教団体
が主催してコーヒーショップを運営している。
ウィークエンドはライブを、日曜には朝と夜に礼拝を始めた。
2ケ月ほど前からこのストレッチ体操も始めた。

SARAと呼ぶこの体操はヨガに良く似ているがヨガではない。
音楽(Praise Music)を聴きながらストレッチ体操をする。
ボクにはどのメニューもたいそう厳しいものばかり、体がギシギシときしむ
音が聞こえるくらい硬い。
受講生は日本人女性5人と男性はボク一人。先生は日本人で神学生。
彼女はクラシックバレーやダンスをしておられる方。さすが柔らかく、動き
が軟体動物のようだ。ボクはといえば、カマキリが動いているようで、ぎこ
ちない。暫く続ければあんなに柔らかくなるのだろうか。

今コンピューターに座って早速このブログを書いているが、何だか体が軽い
感じがする。不思議な事にあれだけ痛かった腰の痛みがない!!

1週間に一度しかこのクラスがないのが残念。来週の土曜が待ち遠しい。

Friday, September 08, 2006

いよーぉ、三枚目!!

この長い道どこまでも 主とともに歩ませたまえ
たとえ、わが足は弱われども 主の手に頼りて

いちどは罪にありて さまよい歩くものなれど
いまは、われ神と共にあり 喜び歌いて

すすめ、ふりかえらず行け ただ主の御声のみ従わん

この長い道どこまでも 主とともに歩ませたまえ
たとえ、わが足は弱われども 主の手に頼りて

3枚目のCDの主題歌です。
曲はミチコ・ヒルさんによるもので、3枚目の全曲をアレンジしてくださり、
ご自身がピアノの伴奏をしてくださっています。
詩は牧昭子さんで、CD製作者、プロデューサー牧良夫氏の奥様です。
10曲入っていますが、そのうち3曲がオリジナル曲、7曲が賛美歌、聖歌
です。全て現代風にアレンジしてありますが、格調があって、クラシカルな
響きで、クラシックの賛美歌・聖歌をいま風にしてあります。
このようにして教会ではあまり歌われなくなってきている賛美歌・聖歌を
形を変えて残してゆきたいと言う私達の努力が結集されています。

クラシックと言うのは一級品です。多くのマスターピースがあります。
時代と共に消えて行くのでなく、一級品は残されてゆくべきです。

新しいものばかりに目が行ってしまい勝ちですが、今の新しいものはすぐに
消えて行きます。新しい中で良いものも沢山あるのに、新しいものばかりを
追ってゆくと、そんな良いものが忘れ去られてしまいます。

良いものは残したい。
ただ、単純にそんな思いでこの3枚目のCDを作成しました。
いつも励ましてくださる牧良夫氏に心から感謝しています。

9月末には出来上がってくるでしょう。

食べ物に手が・・・

山に来て断食祈祷するのは、日ごろ祈り足りない好い加減牧師が、祈り不足
を補う 応急措置のような感じがしないでもない。
断食といっても完全なものはボクには出来ない。ボクは毎日、血液サラサラ
促進のために81mgのベイビー・アスピリンを飲まなくてはならないし、
血圧降下剤も飲んでいるので、朝何かお腹に入れなければならない。
オートミール一袋とバナナ一本、 一日の食事は朝の一回、たったそれだけ
の量だが、何故か空腹感はない。

何しろ全くの山の中、澄み切った真っ青な空、ガンガン照りつける太陽、
時たま吹いてくるそよ風、鳥のさえずり・・・、そんな自然の中にいると
身も心も洗い清められた感じで、空腹感がないのも不思議ではない。

ところがだ・・・、山を降りた途端、その空腹感がどっと押し寄せてくる。
不思議だなぁ、と同行者全員の感想。
世俗的匂いがムンムンとしてくると、すぐ世俗世界に戻ってしまう意志の
弱さに愕然としてくる。

何とかあの山での経験を少しでも持続してゆきたいと思っているが、3日位
でどうも駄目になりそうな予感がしてくる。

コンピューターの前には山に行く前の食べ残しの煎餅がある。
手を出そうか、捨てようか、葛藤している自分が情けない。

Thursday, September 07, 2006

山火事の洗礼

山から無事下りてきました。無事と言ったのには訳があります。
着いた日に早速、山火事に出会ったのです。夕方散歩に出たらナント一番
近い山がもうもうと燃えているではありませんか。
いやぁ~、ビックリしました。なんだか祈りの洗礼を受けているような、
まだ着いたばかりで心が燃えていないのに、山が燃えて歓迎してくれている
のだろうか?
ヘリコプターが2機、ごうごう音を立てながらすぐ近くを飛んで消火作業を
している。
山火事独特のあの匂いが、鼻に突っ込んで来る。

この祈りの山では今までに何度も山火事に見舞われて、火の手がすぐ近くに
来てもう駄目かと思った瞬間、風向きが変わって守られたと言う経験が何度
もある。

今日の山火事はあまり大きなものではない様に思われたが、それでもぼく達
に とっては初めての経験で不気味だ。

朝起きたらもうすっかり消えていた。
消防士さん、ご苦労様でした。
原因は一体なんだったのだろうか。もし人為的なものであったら、大きな罪
だ。ヘリコプターを動員し、多分地上では消防士さんたちが必死に消火作業
に当たっているに違いないのだ。
財政的にも労力的にも大きな損失に違いない。

Tuesday, September 05, 2006

断食祈祷

今日から3日間断食祈祷院に行きます。
浮世を離れ、山の中にこもり、静けさの中で神との対話を深めて行きたい
と願う。
あまりにも忙しいわが身の周辺で、本当に静まる時がない事を痛感。
祈りと瞑想に集中する時が必要。

断食はあまりしないがこの際、思い切って実行しないと魂が乱れてきてどう
にもならない所にまで来ているようだ。
腹が減っては戦が出来ぬ、だが「静けさ」と「集中」、「鋭敏」には断食が
不可欠。

メールなし、ウエブサイトなし、電話なし(緊急用にケータイはもってゆく)
食事もない、3日間でよかった。

ブログをまた3日休みます、ご了承下さい。

では、では。

Monday, September 04, 2006

休みなしの祝福

今日はLabor Dayの休日。滅多にない休みの半日を野球見物と洒落込んだ。
日米選抜高校野球、Good Will Baseball Gameを南カリフォルニア大学の
デドー球場に足を運んだ。
始めて行く所だし込む事が予測されるので、試合の始まる2時間半前に家を
出た。迷うことなくまっすぐに球場に試合開始1時間45分前に着く。
パーキングも、座席もまだまばらで予定にしていた席を確保(最後まで日影
になるところ)。

家内は長く座っておれないので、8回のが終わって帰ってきた。
その時点では3対1で日本がリード。
先発ピッチャーは斉藤。2番手が田中で、二人の雄姿が見られて満足。

夜の集会はいつも通りに持つ。休みといえども家にいる学生や、母子家庭の
母さんと子どもたちがいる。彼らにとっても一緒に集会する方が、気が休ま
るし交わりが楽しいに違いないのだ。

案の定殆ど全員が出席してくれました。子どもも3人来てくれた。

教会はひと時も休んではならない。教会は牧師の都合で動くものではない。
信徒一人一人の事を考えないといけない、と思った。

感謝な休日でした。

Sunday, September 03, 2006

野球を見に行こう

Labor Dayの真っ只中にある日曜はやはり出席者が少ないですね。
仕方のない事で、普段忙しいお父様もこの日ばかりは家族サービス。
1泊或いは2泊で近場に小旅行。
礼拝が終わってから出掛けられた方達もおられました。
そんな中で教会の役員会(我々の教会では世話人会と呼んでいます)、行政
執行部の様なもので、教会の行事だとか、重要な事項を取り決める機関です
が、さすがにその半分も来ておられなかったですね。でも熱心に色々な事が
話し合われ、随分と時間の過ぎるまでやっていました。
ご苦労様です、せっかくの休みだと言うのに。明日はゆっくりとお休み下さ
い。

ボクは久しぶりにゆっくりとしようと決め込んだ。
実は日本高校野球選抜とカリフォルニア高校野球選抜の試合を見に行こうと
思っている。
斉藤投手や田中投手にも会ってこようと思っている。
何年経っても日本びいきには変わりない。
ボクは実は米国市民なんだけど・・・。

今日の日曜礼拝のメッセージは「祈る人になろう」でした。
シリーズで、「イエスに似た生活」をやっている。

イエスは野球見られなかったけど。

Saturday, September 02, 2006

有り難きを想う

アメリカの住居は日本に比べて贅沢にできている。
スケールの大小はともかくとして、前庭、裏庭、があり芝生が青々と敷かれ
ている。キッチンの一部に家族で食事が出来るテーブル、客用のダイニング
ルーム、そして極めつけがリビング・ルームの暖炉だ。
これは余程の邸宅で無い限り日本では見られない。

我が家の裏庭で時々、BBQをする。大概は教会関係の人たちと一緒にする。
テーブルがあって、テーブルの中央に穴が開いていて、そこから大きな日傘
をさす。今朝は一人ゆっくりと遅めの朝食を庭で摂った。贅沢な気分を味わ
えるひと時である。真っ青なカリフォルニアの空、海からのそよ風、鳥やリス
が庭に来る、ナントのどかで平和なのだろう。
冬には部屋を暗くして暖炉の前で、寝そべる。
日本から来た人達は、こんな些細な経験を大喜びしてくださる。
いま生かされている幸せを喜ぶ。

こんな平和なひと時を味わえる事を身に沁みて感謝しなければならない。
飢餓で苦しんでいる人たちのためにドーネーションだけで済ませることには
気が引けてくる。
戦いで家を失って住む所さえままならない人達が大勢いるというのに、贅沢
を満喫している。何だか身がちじこまる。

今あるわが身の有り難さをもっと感謝しなければ。

Friday, September 01, 2006

バケーションなんか

明日から3連休。これは世の中のことで、牧師には、いや少なくとも私には
関係のないこと。
一体休暇と言うのは何時から取っていないだろうか。考えてみると、仕事を
している時から、取った記憶があまりない。
子ども達を連れてキャンプに行ったのが一回あるのは覚えている。それ以外
特別に休暇を取って何処かに行ったというのは、殆どないと思う。
子供達が可愛そうだ。彼等には楽しい家族での旅行の記憶が無いに等しい。
家内もよく文句一つ言わずにここまで付いて来てくれた。

今日スーパーで或る牧師夫人とバッタリ出会った。日本から姉妹が来るので
州外に一家揃ってバケーションに行くという。
羨ましい限りだと思うが、こちらにも色々と事情があって行けないものは
どうあがいてもどうにもならない。
せめて家内を何処かに連れて行ってやりたいと思う、仕事なしで、ゆっくり
のんびりと。

いつか体も動かなくなるから、その時にはゆっくり出来るだろう。
慌てる事なんか無いさ、羨むことなんか無いさ、と強がっている自分が見え
見えだ。