Thursday, November 30, 2006

金が物言う

連日賑わしているニュースの一つに日本野球選手のメジャーへの流出、それ
に伴う巨額の金、金、金。
球団から球団に支払われるポスティング制度金(本人の懐には一銭も入って
こない)、その後の本人と球団の契約金、そこに介入するエージェントの駆け
引き。野球ビジネスは巨大な市場だ。

何年か前に今年引退を表明した阪神タイガースの新庄選手がいた。
彼はメジャーへの“夢”をもって、メッツに入った。彼の契約金は新人並み
の最低額だった。しかし彼は自分の夢を追求して、その夢を叶えた。
ボクは感動した。拍手喝さいした。
野球をやらない少年達にも良い影響を与えたと信じている。

何人もの選手が大リーグに我も我もとやってくる。夢には違いないが、そこ
にはビジネスが介入してくる。
そして大金を積んで鳴り物入りで入団した選手が何時の間にか日本にひっ
そりと帰って 来る。大概その選手は以前日本にいた時ほど活躍していない
で萎んでいる。
少年達の夢をついばんでいる様に見えて仕方ない。
結局は「金」なんだ、のイメージが見えるのが悲しい。

スポーツは憧れを持って見るものだ。自分もああなりたい!! と言う強い衝撃
と願望とを与えるものであるべきだと信じている。
勇気と夢と希望を与えてくれるのが、スポーツ選手だ。
断じて商品なんかではない。

Tuesday, November 28, 2006

実に、見事

葬式場の教会から埋葬される墓地まで、何十台と車が続く。
それを3台のパトカーが先導する。
何時見ても“お見事!!”というほかない、パトカーの先導の仕方だ。

ストップサインのところ、信号の場所でお巡りさんが車から降りて、或いは
乗ったまま、対向車や横から来る車を止める。フリーパスで赤信号を堂々と
お巡りさんの横を通り過ぎる。

パトカーは3台とも白バイで、3人が入れ替わり立ち替わり、前に行ったり
しんがりをつとめたり、実にスムースに、後に続く車を先導してゆく。
プロ中のプロ、良く訓練されている。見ていて、実に気持ちが良い。

   「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。
    神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。
    いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」
                        ヘブル人への手紙12章7節

人は何らかの形で、訓練される必要がある。
いろいろな経験を通して訓練され学び取る。
また、親や友人、上司や同僚、教師や長老から訓戒を受け訓練された人に
は 人生の味がある。また、その人は強い。
その人は自分に厳しく、内から出るものに優しさがある。

Monday, November 27, 2006

ふるさと

最近、お世話になった人達が亡くなられるケースが多い。
10月、日本に行っている間にとても親身にしてくださっていた方が亡くなり
お葬式に参列できなかった。
最後のお別れだったのに、とても残念だった。

今日のお葬式は、沖縄出身の方だった。
ボクが日本に行く前、会って行こうかなと思ったが、お体の御加減が悪かっ
たので会わずに行き、帰ってからも会わずにいたら、亡くなられた。
御体のお悪い方がいたら、すぐに会いに行かなければならないと思った。
人の命は判らない。昨日まで元気な方も、今日明日の命は誰が保障できよう。

告別式は悲しいが、彼女にとっては凱旋のセレブレーションだった。
人生に勝利して天にお帰りになった。
ファイナルトリビュートの時には、夫々が夫々のお別れの仕方が印象的だっ
た。
小さく手を振る人、棺に手を置いて優しく微笑みを投げかける人、なにやら
小声でお別れの言葉を言う人、泣き崩れる人、手を合わせる人、呆然と立ち
尽くす人、それぞれのお別れの仕方だが、「また会えるね」と確信しておら
るかたが大勢おられたようだ。

     「私たちのふるさとは天にあります。
       そこには救い主であるイエス・キリストがおられます。」
                                 ピリピ3章20節

天の国籍とも訳される最終的な“ふるさと”がボクたちを待っている。
どこに行くか判らないなどと言うのではない。ハッキリとどこに行くのか
判っていると言うのは、何と言う安心感だろうか。
神様が用意してくださっている天の御国に行ける保障をいただいている者の
幸いである。

Friday, November 24, 2006

ひめゆりの塔

まだ幼かった頃、日本が世界大戦で調子が良かった頃に撮影された映画を
観て、血が踊ったのを覚えている。ボクも大きくなったら軍人になる、大将に
なる、とあの当時の男の子たちの夢であった。
ところが戦後に見た映画は悲惨なもので、「きけ、わだつみの声」なんていう
映画は観ていられなかった。ほんの数年の間にこれほど世界が変わるとは。

“ひめゆりの塔”(Himeyuri Peace Memorial)は悲しい物語だ。
まだうら若い学校の生徒たちが戦場に駆り出され、男は銃をもって戦い、
女子は銃後の戦いに駆り出された。学徒隊を編成して女学生達、沖縄師範
学校女子部、沖縄県立第一高等女学校の生徒222人と教師18人が那覇市
南風原の沖縄陸軍病院に配属された。
睡眠時間も殆どない状態で、負傷兵の看護、死体埋葬に明け暮れた。

陸軍病院に配属された教師・学徒240人中、136人と在地部隊その他で90
人が亡くなった。

わずかな生き残りの方達の生の証言が「ひめゆり平和祈念資料館」で聞け
る。
何の疑念も抱かせずに、むしろ積極的に戦場に向かわせたあの時代の教育
の恐ろしさを忘れてはならない。

「主を恐れることは 知識のはじめである」
箴言1章7節

戦時中、イギリスの将軍と日本陸軍の大将が膝詰め談判をした時、
イギリスの将軍は、「我々は神以外恐れない!!」と言った。
日本軍の大将は、「我々は神をも恐れない!!」と言った。
なんと言う違いだろうか。

神を恐れない傲慢で不遜な態度は人を滅ぼす。
世の親たちは、自分の子供達にどんな教育をするか。
国の存亡は親の教育に掛かっている、と言ったら言い過ぎか。

Thursday, November 23, 2006

みんなありがとう

今日は感謝祭。
聖書の中に感謝と言う言葉は、訳によって多少違うが、口語訳と新共同訳で
は187回づつ出てくる。新改訳では153回。これに“感謝せよ”とか
“感謝しなさい“とかの動詞を入れると200回はある。
英語の聖書ではNew King James Versionに163回出てくる。
いずれにしても聖書には「感謝」と言う言葉がふんだんに出てくる。

しかし、ボクの生活を見てみると、そんなにふんだんに普段口から出てくる
だろうか、疑問だ。否、感謝の足りない事を恥じるばかりである。
感謝より、要求や不平不満、後悔の方が多い。

旧約聖書の詩篇だけに77回“感謝”という言葉が出てくる。
しかも“感謝”と言う言葉と、神様を“賛美する”、“ほめたたえる”という
言葉が表裏一体のようにして出てくる。

「私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。
私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。」
詩篇30篇12節

“感謝祭”と言う日は年に一度定められ、祭日にもなっている。
しかし詩篇の作者はここで<黙っている事がないために>といっている。
常に感謝すると言うこと。そして<私はとこしえまでも>、いつまでも
神様に感謝し、神様の素晴らしいお名前を賛美し続ける。
ここに私達の信仰生活の基本線があるようだ。

ハレルヤ、主よ感謝します !!

毎日毎日、朝から晩まで、嬉しい時も、苦しい時も、泣き出しそうな時も、
ハレルヤ、主よ感謝しますと、主に向かって言い続けたい。

早速実行しようと心に誓った日です。

あ、そうだ。うちの家内に大いに感謝しなくっちゃ。
ありがとうマミー。
それに教会員の皆さんにも、友達にも、みんなありがとう。
みなさんのお陰でこの私が生かされている。

みんなに ありがとう を毎日連発しよう。

Wednesday, November 22, 2006

平和の礎(2) 沖縄

平和祈念公園に、資料館と言うのがあり、多くの展示がしてある。
一番印象に残った展示は、住民の見た沖縄戦、「証言」であった。
そこには多くの非戦闘員で生き残った人々の生々しい体験が記されてある。
この人達の体験記は、無念の思いで死んでいった人達を代弁しているものだ。
体験記を記す事に心を長い間閉ざしていたに違いないが、その重い口から、
ただ後世に伝えると言う目的で語り継げて行く事を決心なさったに違いない。
貴重な資料である。

展示の結びの言葉に目が留まった:

“・・・戦争を起こすのは たしかに 人間です
 戦争を起こさない努力の出来るのも 
私たち 人間 ではないでしょうか・・・“
とあった。

Tuesday, November 21, 2006

平和の礎、沖縄

10月に沖縄に行った。
ちょうど世界ウチナンチュー大会があり、人々でごった返していた。
何千人と言う海外在住沖縄出身者と、それらの親族が帰って来たのだ。
ボクは集会などに行かねばならず、交通を心配していたが、大丈夫だったの
で安心。

日本どこに行っても観光は全くしないし、そんな暇はない。
しかし、沖縄に来てどうしても見ておかねばならない所が2ヶ所あった。
“ひめゆりの塔”と“平和祈念公園”である。
これは悲惨な戦争犠牲者達の慰霊の記念だ。

お世話してくださった富山先生がわざわざお忙しい時間を割いて案内して下
さった。

平和祈念公園では、先ず目を引くのは刻銘碑である。
平和の広場を中心にして放射状に円弧の形で配置されている。ちょうど扇型
になっている。
石の屏風が116基並んでおり、刻銘版は1204面、25万人の戦没者の名前が
刻み込まれている。
兵隊ばかりでなく、民間人も含めて全て戦没者は県別に刻銘されてある。
日本人ばかりでなく、韓国人、台湾人、アメリカ兵、イギリス兵たちもその
名が記されている。
二度と忌まわしい殺し合いの起こらないことを祈りつつ、「平和のこころ」を
広く内外に述べ伝え、世界の恒久平和を願う。

フト、聖書の一節を思い起こされた。

「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」
                            ルカ書10章20節

天の御国にもこのように何百億と名前が記されている「いのちの書」が
ある。
神様が一人一人召してくださって、名前を書き込んで下さる。
ボクの名前があるのだろうか、等と心配することはない。
すでにギャランティーしていてくださるとハッキリ聖書に明記されている。
今すでに解っている事は何と幸いなことだろうか。

クリスマスにすでに何人かの方が、洗礼を受ける事になっている。
この方達の名前が新しく書き込まれる。
ハレルヤ、ナント幸いなことだろうか。

あなたの名前がある事を確信していますか?

Monday, November 20, 2006

管理の責任

3,4日前から「Engine Check」というランプがつき始めた。
そのうちにゴォーという音が聞こえてくるようになった。
今日は空港に人を見送りに行く途中、ゴムが焼けるような匂いがしてきた。
帰りにもゴォーの音と匂いで心配になり、フリーウェイを途中で降りて、
コーヒーを飲みながらエンジンの冷えるのを待って、ラジエーターを開けた
が異常はなかった。いつも車を親切に診てくれ修理をしてくれるガレージに
持っていって車を置いてきた。

家内はしみじみと私に言った。
「人間には管理する事が神様に委ねられているのよ。健康の管理、家の管
理、 車の管理、この地球上の全ての事において、世の初めから人間は神
様から与え られているものに対する管理責任があるのよ。」
全くそのとおりだと思った。
凄い洞察力、感服した。

神は全てのものを創造された後、こう言われた、

「「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、
これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、
地のすべての這うものとを治めさせよう」。 創世記1章26節

このところ散歩もしていない、どうも食べ過ぎではないかとの危惧がある。
キッチンのオーブンが1年以上使えなくなって今年もターキーが焼けない。
車もこの調子。
管理をしっかりとやらないと、そのうち全部が崩壊してしまう。

みなさん大丈夫ですか?
あなたの家庭、あなたの会社、あなたの健康、あなたの人間関係、
ちゃんと管理しましょうね。

Friday, November 17, 2006

霜月とクリスマス

霜月と言われる11月、さすが太陽の燦燦と輝くここカリフォルニアも、朝
夕はめっきりと肌寒くなってきた。
朝は寒さに弱いボクだが暖房はつけないでマフラーを首に巻き、スエット
シャツの上にジャンパーを着込む。
昨日、家の周りを運転していたら、もうクリスマスのオーナメント(飾り)
を庭一杯にしていた家がありビックリした。
世界中がキリストの誕生を祝う。待ちきれない気持ちの表れだろうか。

平和の君(Prince of Peace)と呼ばれるキリストが生まれるのを、キリストが
生まれる何百年も前から預言しており、世界中の人が救い主が生まれるのを
待ち望んでいたと言う事が聖書だけでなく、古代ローマの歴史家も著述して
いる。
多くの預言者が立てられお生まれになるのを預言した。
何人もの預言者たちは時代も場所も違っていたのに、同じ事を預言した。
一人の預言者の思い込みなどではない、神から与えられた啓示により、預言
し、そしてそれが事実として成就した。そして歴史となった。

キリストがどんな方で、どこでお生まれになる、どんな事を成され、どのよ
うに死ぬ、と言うことまで預言されている。
さらに、それだけではなく、永遠の世界へと私達を導いて下さり、文字通り
戦争も、殺人も、共食いも、涙も、悲しみもない世界へと誘って下さる。

これらは聖書にハッキリと預言されている。
今までの事は全て成就された。
これからのことも預言され、必ずそれが事実となる。

平和の君は、まさに私達に平和をもたらせて下さる。
今は、人の暗い思いが世に満ちているが、やがてその霧も晴れ、光の世界
へ と変わって行く。

ヘンデルのメサイヤ(救世主)というオラトリオをあらゆる国で練習をし始
める時期でもある。

ハレルヤ・コーラスが天にこだまする。

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、
永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、
ダビデの王座に着いて、その王国を治め、
さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。
今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
預言書と呼ばれるイザヤ書9章6~7節

Wednesday, November 15, 2006

天文学的数字だぁ~

「入札金額が日本人選手としては過去最高の5111万1111ドル
(約60億1000万円)という高額になったことについては『自分の
思った額のはるか上をいってビックリ。評価をしていただいて、選手として
はうれしい。その反面プレッシャーもある』(松阪大輔投手談)
と言う記事が掲載されていた。

60億円(5000万ドル)、一般的な家庭の年収が5万ドルとして1000年分。
年収600万円として1000年分だ。おっそろしい天文学的な数字だ。
貧乏性はすぐこんな計算をしてしまう。

しかも彼はまだ26才、本当の評価額なんだろうか、よく解らない。
娯楽としてみる野球も、あまりにもビジネスライクになってちょっと寂しい
限りだ。

「富を得ようとして労するな、分別をもって、やめておくがよい。」
                箴言23章4節

清貧に生きるなんて言葉は多分この時代では死語になっているのだろう。
負け惜しみではなく、富には縁がないし、得ようと努力もしようとは思わな
い。ただ、平安に生きれば良いと思っているが、知恵をいただいて賢く生き
たいとと願うばかりだ。

若いうちは出来るだけたくさんの経験を積めばよいと思う。
新しい世界で、松阪氏の健闘を祈るばかりであります。

Tuesday, November 14, 2006

血筋

悠仁様が出産後、始めて外出されたと言うテレビニュースが放映されていた。
宮様一家の慣例行事のお宮参りと言うこと。
宮様のご家族は何となく、生まれたときから高貴なお顔をしておられると思
った。
悠仁様のお顔は常人のものとはちょっと違う感じがするから不思議だ。
本当はごく普通なんだろうが、ブラウン管を通してみると、とても端正な顔
に見える。
お家柄がよろしいというだけで、ボクみたいにどこの馬の骨とも分らない者と
は生まれた時から何処かで差別されるのだろうか。

いやいや、そうではない。
神のもとにみんな平等なのだ。

「それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、
人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。」
    ヨハネ1章13節

神によって生まれると言う事は何と幸いなんだろう。
宮様だろうが、貴族であろうが、こちとらはチットモ遜色がないのだよ。
何しろ神によって生まれたと言うのだから、この地上のどんな身分のある
人たちであろうと、みんな同じなんだよ。

心強いね、神様を信じるってのは。

Friday, November 10, 2006

よ~ぉ、お久しぶりだね

きょう、久しぶりに美味しい厚揚げを口にして満足した。

アメリカに渡る前日の夜、熱海でお世話になっていた伯母が、近所の豆腐屋
で作っている厚揚げを七輪で焼いてくれた。
それが余りにも美味しくて、当時20代の半ばであったこのボクの舌に強烈
な記憶として40年以上も残っていた。
あんな美味しい厚揚げを食った事がない・・・と思っていた。
たぶん感傷的な気分も手伝っていたから余計に舌の感性がその様に捕らえ
ていたのかもしれない。
或いはごく普通の物であったのかも知れない。でも美味しかった!! と言う
印象がずっと残っていた。

今日食ったのも多分それに劣らなかったくらい旨いものだった。
それはマーケットに売っているのではなく、そこは町の豆腐屋さんだ。
おからも豆腐も豆乳も厚揚げも買ってきて、昼のご飯に生姜をすり、鰹節を
かけて冷奴を食べ、厚揚げは焼いて生姜をつけて食べた。
豆乳も飲んだ。殆ど毎日市販の豆乳を飲んでいるが、全く味が違う。
ロスでもこれが味わえる。贅沢な世の中になってきたなぁ。
(家内がいつの間にか箸を持ってきて半分食べた)


   「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。
    あなたの御前には喜びが満ち、
    あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」
                                 詩篇16篇11節

40年以上も美味しい厚揚げの味を味わえなかったけれど、今はもっと味わ
いのある聖書のことばにどっぷり浸かっている。
いったん神の言葉を味わうと、毎日がボクのいのちの奥深くまでしみわたり、
魂に喜びと満足感を始終満たしてくれる。

ああ、神の言葉のナント奥深いことか。
この乏しい感性では充分に味わう事が出来ないくらい崇高なものだ。
しかし、望めば毎日提供される。
贅沢の極みである。

ああ、感謝、感謝。

Thursday, November 09, 2006

枯葉よ~~

昨夜の集会で、ある婦人の話がとても興味深かった。

秋の象徴とも言える“落ち葉”と“枯葉”には微妙な植物学的な意味の違い
があるというもの。
“落ち葉”というのは、元来、木に繋がっていた葉が、最後の寿命が来て、
木から離れて落ちて行く、その直前まで木につながって、全生命を全うした
と言うもの。
だから、枯葉となった落ち葉は、最後の最後まで木に繋がっていた。

木から切り落とされたり、風で吹き飛ばされたり、寿命の生命の途中で止む
なく木から離れた葉は、枯れると言うより、命が絶たれて萎んでしまうのだ
そうだ。
だから“落ち葉”とは言わない。

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたと
つながっていよう・・・。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしに
つながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は
実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つ
できないからである。」 ヨハネ15章4,5節

「命の源」をしっかりと持っていなければ本当に生きているとはいえない。
どこに繋がっているか、それが大切なのではないか。
空虚なものに繋がっていたくない。命のあるものに繋がっていればこそ、
実がなり、命が与えられる。
「命の源」・・・、それをボクは神と認識している。

Wednesday, November 08, 2006

ユダヤ人博物館

Museum of Toleranceは、観客参加型の博物館である。
入場して展示物の前で勝手なおしゃべりをしたりうなずいたり傍観する従来
の形式を想像しているとひっくり返る。まず入り口で第一の選択。
心中に悪意、偏見、差別のない人は右側の平穏そうな門をくぐれるが、そう
でない人は左側の毒々しい紅ランプの点滅するドアを押す。
やっと入場した内部では、ごく普通の人が大量殺人する者に変貌していく可
能性と向き合わされる。観客が歴史の舞台に引っ張り出されるのだ。
ホロコーストの犠牲になった若い命を一日預かる。ナチ台頭前夜の街角の
カフェテリアでの会話を立ち聞きしてしまう。
処刑のビデオの前に立ち尽くす3体の蝋人形に混じって画面を見る私たち観
客も蝋人形さながら今という歴史に立ち会うfigureに他ならないことに、
思いが至る。歴史には必ず伏線があって今に至っており、その今が今後の歴
史へと流れていくということ。それが言葉という形をとって良くも悪くも目
に見える形に実現していくことを考えさせられた異体験の一日でした。
(松尾逸見)

Monday, November 06, 2006

秋だ

“秋の日の ヴィオロンのためいきの 身にしみて ひたぶるにうら悲し”
(上田敏の訳)ベルレーヌの詩である。
何となく秋の日の美しくもありもの悲しげな情景を想い起こさせる。
語るくちびるもついつい物憂げに、寂しくなる。

しかし、秋は食欲や味覚のとき、読書や収穫の季節なのだ。
感傷に耽っている場合ではない。
元気を与え、希望を与え、慰めを提供する言葉を語る事に専念しなければ
ボクが立てられている意味がない。

「主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せは清くて、
人の目を明るくする。」 詩篇19:8

秋になると感謝祭、クリスマスももうすぐだ。
心が淋しくなると、自殺者も増える季節。
血圧や血糖値が上がっただけで、フト人生の行く末を考えたりする。
こんな事が長く続いたら、ちょっと厭世的にもなりかねない。
人生難しく考えないで、明るく実のあるほうに考えたいもの。

血糖値余り気にしないで、普通のものを食べる事にしている。
今は食欲のあき、アキ、秋なのだ!!

Saturday, November 04, 2006

Pleasure

「Business with pleasure」、ビジネスをしている時よく実行していた。
忙しい仕事の合間に、ちょっと一休みと言うか、気分転換を図る。
焼き物の好きなボクは、よく陶器を作っている窯場を訪れた。

益子焼などには一番よく行ったかな。あそこはちょっと不便なところだが、
それでも一日かけてゆく。
今迄行った所は、益子の他に丹波立杭焼、備前焼、信楽焼、伊賀焼、唐津
焼、 上野焼、萩焼、小石原、有田、伊万里、九谷焼、京焼、笠間焼、瀬戸焼
と随 分と行ったものだ。
この中には仕事で行ったのが殆ど。Pleasureも兼ねたものだが。

勿論時間が掛かるので一日仕事、それなりの効果はある。
或いは、近くの温泉場に行き一晩ゆっくり湯に浸かってくる。翌日は元気
一杯、仕事に励む事が出来る。

牧師になってからそんな余裕は、時間的にも財政的にも全くなくなってしま
った。集会から集会へ、町から町へと忙しくしている。
この間も神戸と青森に行ったとき、温泉に誘われたが、集会前の温泉は自重
している。風邪を引くと取り返しがつかなくなる。
泣く泣くお断りしなければならないのは、断腸の思いである。

牧師になっても、忙しくしているばかりが能じゃない。
「Ministry with pleasure」は必要だと思っている。
今回は沖縄に行ったので壷屋焼を見てきた。

ボクの場合、いまは休暇を一切取らないのが主義なので、休みに家族で何処
かに行くような事はないが、今回3週間で18回の集会をしたので、体を休
めるために一日休養の日を体に与え、一日寝て食べるだけの日を設けた。
久しぶりに身も心も実にリラックスできた。感謝な日であった。
残念だったのは、何だかお腹の調子が悪く、折角の料理を半分以上残した
事 が返す返すも残念でならない。

「自分の心を制することができない人は、城壁のない、
打ちこわされた町のようだ。」 箴言25:28

自分の心も体も節制しなければ、やがて成人病、そして死に至る病いになる。
神様に用いられようとすれば、尚更のこと、気を付けねばと思いつつ、この
一週間歩いてないし、昨日も日本から貰ってきた甘い物を賞味期限が切れる
と言うので急いで3つも食べてしまった。

神の宮なるこの体、もっと大切に扱わなければと思いつつ・・・。

Friday, November 03, 2006

顔は心を映す

3枚目のCDをリリースできた事はことのほか喜びだが・・・。

朝の4時に家を出発してカバーの写真を作成するのにラスベガスへ行く途中
の間道を走ってやっと気に入った場所を見つけて撮影した。
プロデューサー曰く、「今回、顔は入れないようにしましょう。」
年を取ってくるとやはり・・・。

そういうわけで「この長い道」と言うタイトルなので、長い道を捜し歩いた
と言うわけ。

今回日本旅行でCD1,2,3を持って行ったのだが、やはり3枚目が一番売れ行
き が良かった。
やはりねぇ・・・。

「顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。」
箴言27:19

人がどのように取り繕っても、結局、その人の心は、その人の態度や行動に
現れて隠れることはない。
年は関係ないのだ。要はその人の心の中に持っているものが外に現れる。

そういえば、『若いですねぇ~』と言われて悦に入っていたっけ。

Thursday, November 02, 2006

赤っ恥

時間帯にもよるのだろうが、日本で電車に乗るときは気をつけなければいけ
ない事を、赤恥とともに経験した。

大阪駅から新大阪駅に行く電車に発車直前、飛び乗った。
案外空いていて、座席にも一つ二つ空きがあったが一駅なので立ってゆく事
にした。
立っていて良かった。
そこはナント女性専用車であったのだ。
ドアの隅っこに小さく突っ立っていたのだが、5分間の長かったこと。

座っていたらどんな顔をしていたらよいのか。
すぐに立ってドアーのところに行くだろうか、それとも厚かましく座り続ける
だろうか。
考えただけで顔が赤くなり、汗が噴き出してくる。

日本にいる方は良く知っていてこんな失敗はなさらないだろうが、外国に住ん
でいるボクたちは余程気をつけないと、赤っ恥をかく。

「油断することなく、あなたの心を守れ」箴言4:23

Wednesday, November 01, 2006

着違い

日本旅行中、一組の結婚式の司式をさせていただいた。
嬉しかったと言うか、初めての経験だったのは、式の流れを総指揮させて
いただけたことだ。今までだと大概はウェディング・コーディネーターのような
方がいて、その方の言うとおり司式だけをやればよいのだろうが、何から何
まで指示させていただけたのは、多分これが最初で最後かも知れない。

別に変わった事をやった訳でもなんでもないが、柔軟性を持って楽しくさせ
ていただいた。

ところが誰も気がつかないハプニングが起こっていた。
実は礼服に代わる背広を用意していたのが、その朝、慌てていたのだろう、
同じ色のスポーツ・ジャケットを着て行ったのに気がついたのは、式の始ま
る5分前。
何気なくボタンをかけた時、アレッ!? 感触が違う。
ややや~ッ、よく見ると、ナント金ボタン。
ヤバイ!! と思って、反射的にあたりを見まわしボクの体形に合った人がい
ないか確認。
残念ながら皆さん細型のスマートな方ばかり。
エ~イ、こうなったらやるっきゃない。覚悟を決めて最後まで知らぬ顔の
権べぇさんを決め込んだ。

翌日、礼拝中に白状したら、ナントどなたも気がついていなかったと言うで
はないか。
それもその筈、皆さんが見ておられるのは、新郎新婦と可愛いフラーガール
リング・ボーイなのだから。

あ~、良かった、と思う気持ちと、誰も見てくれてなかったと言う気持ちが
複雑に交差した日だった。


「彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。」
                                マタイ17:8

何処を向いててもその人の自由だろうが、イエス・キリストからだけは目を離
さないでおきたいと、自戒した。