Saturday, August 15, 2009

一体どれだけ休みを取ればいいよ! 起こられ通しの半年間。
何をしていたかって? サボっていただけなんです。
何だか書く気がしなくて、倦怠感と言うやつでしょうか。
また始めますよ。ただし、違う形で。

実は8月いパイでこの教会ともお別れ会。
9月から独立の形になります。
でもそろそろ始めようかとも思っている。その間、これを
再発ってわけ。
またお付き合い下さい。

Monday, February 02, 2009

シャワーは艱難辛苦

何年ぶりかで朝シャンと言うのか、朝にシャワーをとった。
えっ?! と思われるかもしれないが、ボクは寝る前派なのです。
アサシャンはテレビの影響でした。
「ためしてガッテン」の番組で加齢臭について放送されていました。
華麗臭ではない。
親父が嫌われる、あの何とも言えない独特のにおい。
娘たちがまるで腐った魚を嗅ぐように顔をプイッと背けるあの臭い。

体のどこから一番臭いを発するかと言うと、胸と背中なんだそうな。
タオルでチョイト拭くにとどめ様と思ったが、どうせならエイッとばかり、
全部洗ってしまったと言うわけ。
ボクがアサシャンをしないのは風邪を引く可能性があるからなのです。
一度ひどい目にあったことがあるのです。
そう、今でも覚えている、ハワイに行く2日前のこと、あるセミナーが
あって講師はご婦人であったので、やり慣れないシャワーを取ってしまった。
ハワイに付いた途端からずっと風邪を引き、泳げない、食事にもいけない、
観光にも行けないで、散々な目にあってしまった。
アシャサンは絶対にやらない、と心に堅く誓いを立てたのです。
今日はその堅い誓いを破ってしまったのです。
すごく罪悪感を感じながら、今に来るか、今に来るかと、お風邪様を待って
いる嵐の前の静けさのような状態です。
午後から自彊術の体操があってその時、女の先生が必ず背中をマッサージ
して下さるからなのです。
不快な臭いは避けたいのです。その思いだけなのです。
だから週に2度はアサシャンを取らなければならないのです。
もうこうなったら、シャワーの爽やかさというより、難行苦行で滝に打たれ
るのと同じことです。
「我に艱難辛苦を与えたまえ」の心境でシャワーを取り、いざや、いざ、
午後の体操に行ってきま~す。

Monday, January 19, 2009

ハイパー犬

2,3日前、娘に電話をした。犬の近況写真を送ってくれた時、以前飼って
いたゴールデン・リトリーバーを小さくした、そっくりな子犬が写っていた
ものだから、どうしたのだと言う電話をわざわざオレゴン州までした。
そうしたら貰ったのだと言う。ジェイジェイ(JJ)とマーリーと言う2匹が
住むようになった。JJは成犬だが体は小ぶり。子犬のマーリーとほとんど
同じ大きさ。でもJJにとっては恰好の相手。犬も寂しくなくてよい。
2匹飼うと両方が長生きする。これは実証済にだ。何しろゴールデンリト
リーバーは19年生きた。相方は16年生きたどちらも大型犬だった。

ただマーリーはあまりにもハイパーなので、JJも手古摺っているらしい。
娘も悲鳴を上げている。
道理で只であの犬呉れたわけが分かった、と娘のボヤキ。

Monday, January 12, 2009

「わたし、わたしよ!」

朝早くに電話があった。
「もしもし、安藤さん?」「ハイ、安藤です」
「わたし山田です」「・・・」大体4人くらいの山田さんを知っているので
迂闊に返事できない。
しばらく間をおいて、「エ~っと・・・」「山田ですよ!」ちょっと苛立ちが
伝わってくる。
当然知っているでしょう、私のことを、と言わんばかりである。
困っているのはボクの方。
弱ったな、調子合わせて知ってる振りしようか、それとも最後まで確認した
方がいいか、しばし沈思黙考が続く。
「山田花子です」ついにフルネームでおっしゃってくださった。
なんだ、初めっからそういえばいいじゃないですか、すぐに分かったのに。
このお方は信仰の大先輩。しかし10年以上もお会いしていない。

ついこの間も、暫く振りでかかってきた電話がある。
家内が先にとった。ところが家内が名前を間違えてボクに受話器を渡し、
「日高さんから電話」ときた。日高さんて昔一人知っていたな。でも、その
人からかかってくるわけないしと、「ハイ、安藤です」「あ、日高です」
「あ~、どちらの日高さんでしたっけ」「あら、この間もあの集まりでご挨
拶させていただいたじゃありませんか」「???」「まぁ、忘れられてしまっ
たのですね」
こんなやり取りが暫く続き、やっとフルネームを言ってくださった。
そら、そら、そら、すぐに分かったじゃないですか。家内が名前を間違えて
ボクに受話器を渡してくれたのも、そのまま鵜呑みにしてしまったことも、
一瞬にして解決じゃないですか。
名乗り出ると言うことは、相手に恥を欠かせないためにも、どこどこの何々
とフルネームと所在団体なり、会社なり、言えば最初から問題ないことなの
ですね。

みなさん、久しぶりに電話をかけるときには、必ずフルネームを言いましょ
うね。相手に恥を欠かせないためにも。配慮しましょう。
特にボクのようにもうそれ相応のお年を召している方には。

間違っても「安藤さん、わたし。だれだかわかる?」なんてゆめゆめ
言わないようにして下さい。

Friday, January 09, 2009

土地のうまいもん

オオハクチョウが都内に飛来した、と言うニュースを見ました。
普通北海道あたりに来るが、東京に来るなど滅多にないそうです。
写真を撮る人、じっと眺める人、日本人には風流な心情があっていいですね。
花鳥風月、屏風にしたり、掛け軸にしたり、はたまた眼(まなこ)の奥底に
しっかりと焼き付ける。
俳句などには必ず季節にちなんだものを入れる決まりになっているくらい、
四季折々の替わりが人々の生活に密着している。
ボクは年に2度日本に行くが、桜や紅葉をじっくり見たことがない。
アヤメも見たことがない。春の花もゆっくりと一度は見たいものだ。

その代わりと言っては何ですが、訪れる地方に行く前にその地の特産物、と
いっても食べ物ですが、何があるのかを調べてゆくことにしている。
食べられる食べられないは別問題で、とにかく調べることにしている。
チャンスがあれば食べるし、なければ唾を飲み込んで通り過ぎるのみ。
毎日毎日忙しいスケジュールをこなす日が続くわけですが、食べてやろう
と言う意気込みだけでも元気を貰えるので、ボクって安上がりな人間です。
時には食べに連れて行って下さる方がおられます。
その方はその土地の人ですから、何がその時期美味しいか、どこの店が
一番美味しいか、良くご存知なはずなので、そんな時は期待感一杯で胸が
ワクワク膨らんで、食べる前からお腹までもが膨らむので困ってしまい
ますが、それは、それは、それは幸福の絶頂感を味わうひと時なのです。
あ~、おいしかった、と疲れもすっかり吹っ飛んでしまいます。

日本はその土地土地に名物と言うか、歴史を踏んでここまでやってきたと言
う自慢の食べものがあります。
たとえば、食材でも土地によって食べ方が違うと、こうまで変わるものかと
驚くばかりです。

家内の里は日本海に面した小さな町で、蟹やイカ、甘エビ、その地方でしか
取れない地魚が捕れてそりゃうまい所なのです。だから当然そのことを期待
しましたよ。
一番最初にご両親にご挨拶に行ったときの事、お昼ご飯を出してくださった
のですが、それがなんと! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
てんやもんのトンカツでした。

アメリカから来たというだけで、大変気を使ってくださったのだと思う。
ご両親の気配りを感謝して、有難く押しいただいて、いただきました。
しかし、トンカツがあんなに印象的だったとは!
あれから40年、今でも忘れられないのですから。

Thursday, January 08, 2009

お茶様の風格

今日もお茶の話で面目ありませんが、改めて今朝もお茶の良さと言うか、
その効用をつくづく感心したのです。
もちろんほかの飲み物にだってその良いところは沢山あって、ボクのは飽く
までも自分の好みを言っているに過ぎないのです。そこのところをよーく
ご理解いただかないと、反発が大波のように押し寄せてくるは必定。

今朝はなんだかそれでも嫌にコーヒーが飲みたくなったのです。
なぜかと言うことが分かりました。すぐにピンと来ました。
今日は朝からミーティングがあったのです。そのミーティングに行く前から
コーヒーを飲みたくなったのは、実は飲み物そのものに環境と言うか、状況
に順応する作用があったのです。これは大発見でした。
コーヒーと日本茶の違いは言うなれば、「動」と「静」です。
方や能動的であり、方や受身と言うか受動態なのです。
現に、「ミーティング」と思った途端に「コーヒー」と反射的に来たではない
ですか。不思議ですね。現代のミーティングに日本茶は合わないのでありま
す。日本茶をすすりながら、株の動向を議論し合ったり、売り上げの修正問
題を検討し合ったりは似合わないのです。何かテンポをはぐらかされる様で、
リズムが合わないのです。
お茶を飲みながらというのは、昔の話であって、今の時代ミーティングは
コーヒーなのです。
忙しく頭の中をグルグル回しながら、口角泡を飛ばして喧々諤々するのに
は、紙コップに入れたコーヒーなのです。そこには動きが常にあるのです。
ミーティングで不愉快なことがあれば、部屋を出るとき、出口にある
トラッシュ缶に紙コップを片手で思い切り握りつぶして、コンチクショーと
投げつければよい様になっているのです。湯飲みはそうは行きません。

日本茶は陶器の湯飲みに入れ、静かなところで一人、庭があれば庭を見な
がら、それも雨後のしっとりと濡れた石や花、木々を眺めながら、お茶を
すするのが良いのです。
ゆっくりと思考回路を巡らし、まるで大河が流れるような感じで、否、
流れが止まっているかのような状態の中で瞑想をしながら、飲むのに
ふさわしいのです。
威厳があって、何か近寄りがたい風格があって、それでいて体には染み渡る
ような恍惚感は、紙コップのコーヒーでは到底できる業ではありません。

真剣なビジネスミーティングに日本茶を出されると(それも紙コップに)
お茶を濁したくなるような、茶々を入れたくなるような気分になるのは私
だけだろうか。それこそ大切なミーティングが茶番劇になりかねない。

お茶を飲むときには、場所と環境と湯飲みを選ぼう。
これは大切なことです。そうでないと、お茶様どころかコーヒーさんさえ
気を悪くなさるかもしれません。
お茶の話はもうこれ位にしておきます。
お茶は話すものでなく、味わうものです。
どうも、おチャまいたしました。


それではお茶を一杯いただきましょうか。

Tuesday, January 06, 2009

お茶様の心

日本茶好きのボクにはどうもまだ紅茶の味が分からない。
色々と何々の紅茶というのを試してみたが、「うまい!」と驚嘆したのは
一度もない。
それに比べて、日本茶は実にうまい。ボクは特に煎茶が好きだ。
微妙な湯の温度差によってお茶の醸し方が違ってくるというのだから、一種
の芸術品だ。それも一級の芸術品で、入れる人の心の機微のようなものが
お茶の味として伝わってくるからたまらない。

先日、日本からこられた高名な牧師先生が持ってきてくださったお茶は実に
うまい。なぜ旨いか。彼はあちらこちら苦労して煎茶を買いに奔走してくだ
さった。どこのが良いのか、あちらの店、こちらの店と回って下さったに違
いない。飲む前からもうすでに心がこもっているからそれがお茶の味として
表れてくるのだ。
朝の起き立てに2杯、夕食後の勉強時間に2杯。温度に気をつけながら茶を
入れる時からもう、舌はお茶の香りで充満している。
早く一杯目が飲みたいという衝動をぐっとこらえて、じっと待つこと1分。
この1分の長いこと。でも楽しみの1分。
湯気が立っているのかどうかも分からないほどの熱さのお茶がドクドクドク
湯飲みに注がれる。やおら湯飲みを持ち上げる。それも何かしら恭しく。
コークやセブンアップを飲むとでは、その品性において大いに違う。
あの円やかさ、ちょっと渋みの中にある甘さ、ビロードが喉を通って行く
ような滑らかさ。あ~、たまらないのどこし。
ついうっとりとしてしまう。

紅茶にはこのうっとりさがない。
ビスケットとか、ケーキとかを食べるのに喉の通りをスムースにするために、
或いは甘さを中和させるために、紅茶にはプラス・アルファが必要なのだ。
しかし日本茶は茶ひとつで勝負している。ここが日本茶の偉さである。
日本茶を飲むときには何も要らない。
ただ、茶だけあればいい。
こんなすばらしい飲み物って、世界に類を見ない。

どなたかが尋ねて来て下さる時、必ず「何かお飲み物いかがですか?」と
たずねる。一瞬この家では何を出してくれるのだろうという顔をされる。
すかさず「コーヒーがよろしいか、日本茶にしましょうか、それとも紅茶
にしましょうか」とたずねる。うちにはソフトドリンクは置いてない。
「お茶で結構です」と言われると、「分かりました」と言う言葉が出てこない。
ちょっとムカッとして、パック入りの番茶を出そうかと思う。
心を込めて入れるお茶は、おいしく飲まれることを期待しているのだ。
それに向かって「お茶で」はないだろう。お茶を濁して出したい気持ち、
お分かりいただけるかな。
「お茶をいただけますか」とか「お茶がいいですね」とか、言えませんかと
お尋ねしたいのだ。「で」はお茶様に向かって失礼だろう。デリカシーを
尊重されるお茶様は気分を害して味だって、いい味を出してくれないと思う
よ。「が」とか「を」とか言われると、気持ちよく飲んでいただこうと、
お茶様も満足されると思うが、どうだろう。
お茶は入れる側も、飲む側も、お茶様の心を心としていただければ最高の
お茶が味わえると言うものだ。

「お茶を一杯いかが?」