Friday, April 28, 2006

マッチ

火を出すマッチの話ではない。
「match」似合うとか釣合うの意味で英語だと同じスペリングだ。

先日招待を受けてタイ・レストランに行った。タイ料理は王宮料理の名残な
のか辛いけどとても美味しい。
デザートにマンゴーともち米を炊いたのが出て来た。
「カウニョウ」とか言うらしい。発音は確かではないが。
実に美味であった。あとは要らないからこれだけ腹一杯食べたいと思った。
実に人間の知恵は素晴らしい。どう考えてもマッチしないような米と果物が
実にうまく合わせて、妙味を醸し出している。

ご主人が我が道を行くという、フリーチャイルド、天真爛漫、創造性豊かな
芸術家タイプのフリーのデザイナー。
奥様が会計士で朝から晩まで数字と睨めっこ、そこには自由な発想というよ
り、決められた方程式の中に数字をはめ込んで行くのが仕事。
全く正反対の、それこそマッチしない性格のお二人が仲良く生活しておられ
る。外見からは分からない夫婦の妙味がある。

教会というところはこれと似ている。様々な人がいるから面白いし、問題も
ある。目的が一つだからうまくやって行ける妙味だ。

「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう。」
                             聖書(詩篇133篇:1節)

忠実さ

いつも家の中をうろうろしている、犬のジェイジェイ(JJ)がいない。
「JJ,JJ」と呼んでも返事がない。
ところが「JJ,スピーク!!」(speak)というと「ワン」という返事が返って きた。
ガレージの奥の方から声が聞こえてきた。
よく見ると荷物の間に入ったまま身動きが出来ないらしくゴソゴソしている。
ちょうどガレージ・セールをするので、ガレージの中は荷物が一杯で、犬の
居場所が無くなってしまった。

犬は忠実だ。子供なんて呼んでも返事がなかった記憶がある。

    「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、
        『サムエル。サムエル。』と呼ばれた。サムエルは、
        『お話しください。しもべは聞いております。』と申し上げた。」
                            サムエル記上3章10節

サムエルが神殿で寝ていたとき、夜中に神が呼ばれるのを聞いて祭司の
エリ が呼んだと勘違いしてすぐにエリのところに飛んで行ったという記事
である。

神の声にいつも聞き耳を立て、細い声で呼ばれる声を聞き分けることの出来
る者でありたいと思った。
JJから学んだこと。

Monday, April 24, 2006

順番

アメリカにいて気分が良いのは、順番に対してみんながとても規律正しい姿
勢を持っていること。公共道徳というのがとてもうるさいところとも言える。
今日も病院の受付に行ったら受付係りが二人とも電話の応対で忙しく、ボク
は暫くウロウロして待っていた。一人の手が開いたときにはもう何人か待っ
ていたが、「次の方は?」と言った時丁度その目の前に居た女性の方がボク
のほうを指差して、あの方です、という合図をした。
こんなことはしょっちゅうのことだ。割り込みを極度に嫌う国民なのだろう。
公共道徳は守るという秩序が徹底している。気持ちがいい。
割り込みを平気でされると、何だか嫌にドキドキしたり、腹が立ったり、人を
押しのけようとしたり、険悪だ。

せめてロープを張ったり、番号札を取ったりするくらいの、配慮があっても
良いと思える場所や国がある。でないと一発触発の雰囲気に、弱い者は
いつも押しのけられる。

アメリカでのことだが、マーケットのレジの前で割り込みをした人に腹を立
て拳銃をぶっ放したという話が新聞に出ていた。

公共の場所でのマナーはいちいちマイクで知らせなくても、或いは標語にし
てあちこちに張らなくても、守れるようになってほしいものだ。
最高学府を出たエリート人間、きちっと背広を着込んだいい大人が、マナー
を守れないのをみるのは情けないではないか。

嗜好の変化

近頃、食べ物の嗜好が変わってきだした。
あれだけ好きだったラーメンが余り気にならなくなってきた。
ソバやウドンなど殆ど見向きもしなかったのに、わざわざソバを食べに
行きたいと思ったりする。家内にもよくウドンを作ってもらったりする。
具が何もなくても納豆とねぎを入れて食べる。

人間の嗜好は環境や習慣によって変わって行くもんだという事を学んだ。
ボクの場合は脂っこいラーメン禁止令が出たから、それに代わるものとして
ソバ・ウドンが浮上してきたのだ。

酒をよく飲んでいた時代、あまり甘いものは食べなかったが、酒を止めなけ
ればという意志が働いてから、いつの間にか甘党に変わってきている。
今は日本的な甘さが無性に好きだ。
酸っぱいものが食べられなかった。酢などそのまま飲むなんて飛んでもない
話だった。今は酢をそのまま飲むことにも慣れてきた。健康維持のためだ。

近頃健康に気をつけるように考えているのは、何もただ長生きをしたいとい
うことだけではない。家内より先に死ねないということもあるが、ボクには
やらなければならないことがまだある。どうしてもやってからでないと、
人生終えるわけにはいかないという目標がある。
嗜好は志向によっても変わるものなのだ。

嗜好の変化には色々と理由と原因はあるが、体は「肉体」だけではない、
「魂・心」と「霊」も大切にしなければ本当に健康とはいえないと思うか
らだ。それにこの体はもうボクのものであって、ボクのものではない。
捧げたのだから大切にしてゆかなければと真剣に考え始めたからだ。

Friday, April 21, 2006

自然薬

「三種の神器」じゃないが、「三種の悪玉」が立派に育っていて、いわゆる
生活習慣病のぎりぎりの線。これ以上行ったら「糖尿病」と宣告します、と
医者にいわれて帰ってきた。

「血圧」、「中性脂肪」、「血糖値」それぞれがずいぶんと高い。
血圧はもう年だから、下がる事をあまり期待しないほうが良い。これ以上
上がらないように気をつけるようにとのこと。
しかし、1ヶ月前に測った血圧より今日の方が下がっていた。処方していた
だいた血圧降下剤は4日前に切れていて、今日新しいのを貰うはずだったの
だが、下がっていたのを不思議に思われたので、
「4日前から生姜を毎日取っています」と言ったら、馬鹿にされたように、
鼻先で笑われた。
まぁ、それも仕方のないことだ。
相手は若い独身の先生、しかも近代医学を学ばれたバリバリの新人気鋭の
ドクターなのだ。生姜なんて鼻にもかけないだろう。しかしこれがまた効く
のだ。「知らねぇなぁ~」と言いたいが、まぁ、こちらの命を預けているの
だから、あえて反論はしなかった。

それでも生姜は毎日取るつもりだ。

      「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、
      その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実を
      つける。
      その水が聖所から流れ出ているからである。
      その実は食物となり、その葉は薬となる。」  
                             聖書(エゼキエル47:12)

神様が自然に備えてくださったものには食物となるものや、薬となる物が
ふんだんにある。
これは決して無視できない、全く害にならない、自然の薬だ。
人間に与えられた知恵は現代的な医学もそうだろうが、神が創造なさった物
の中にこそあると言う事を知ることではないだろうか。なぜなら人を創造な
さった神は植物も人が生きるために創造なさったのだから。

生姜は神が供えてくださった自然の薬として取り続けよう。
神の供えてくださったものに悪いものは何一つない。

「こだわり」をすてる

久しぶりに胸がときめくような、ピンク色の少し小さめの封筒に入った日本
からの郵便を受け取った。
勿論女性特有のセンス溢れるもので、すぐに若い女性からだとわかった。
送り主が高校生のとき、3週間ほどホームステイしていた女性。あの時は将
来の夢を膨らませて、アメリカに留学に来るその下見であった。
建築家になるというのが夢で、すでにどこの学校と目星を付けてきた。

2年ほどして再びアメリカを訪れ、ロサンゼルスに範囲を絞らず、サン・フ
ランシスコも視野に入れたいとの希望であった。

しかし彼女は京都の大学に行き(建築専攻ではない)、一年間そこで学んだ
が、今度は看護士を目指すと言い、その大学を辞めたという報告であった。
そしてまた東京の大学を受けなおすということらしい。全く異業種の世界へ
と進もうというのである。

ボクは彼女の将来に対する態度が決して移り気とは思えない。
返っていつも、真剣に将来を見据えていると思う。真剣に取り組んでいるか
らこそ、変更する必要があるのだ。

ビジネスの世界でもそうだと思うが、猫の目のように変わって行くのは当た
り前のことなのだ。
「こだわり」という言葉が頻繁に用いられている今日この頃、とても必要な
ことだと思うと同時に、「こだわり」続けないことも必要だと思う。
「こだわり」を捨てて、勇気ある修正は評価されるべきことなのだ。
まだ20才の人生、まだまだこれから思いもかけないことが起こってくる。

勇気ある選択と決断を心からお祝いすると同時に、じっくりと先を見据え、
彼女に与えられている賜物を生かしながら、喜びを持って進まれる道が備え
られる事を願って止まない。

   「人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。」
                                  聖書(詩篇37:23)

Thursday, April 20, 2006

異常な値上がりガソリン代

ガソリン代が日増しに上がって行く。低所得者にとってはたまらなく生活を
圧迫する。
首を引っ込めて外には出ないようにしなければならない。
それにしても異常な上昇だ。
毎日長距離をドライブして仕事に行く人達は大変な思いをしているだろう。
ガソリンに代わるエネルギーを早く開発して欲しい。

近頃、近距離しか運転しないのでボクは大分助かってはいる。一回入れると
40ドルは越す。2週間に一度くらい満タンにするくらいだ。

アメリカでは日本のようにサービスはあまり期待できないが、最近ガソリン
を入れている間、メーターの上辺りにテレビの画面があって、天気予報や
スポーツニュースを映し出していた。勿論宣伝もがっちり入っていたが。
せめて待っているほんの数分の間だけでも退屈せずにすむ。

Tuesday, April 18, 2006

養殖人間

我が家で家庭集会をよくする。
夕べのこと、日本庭園の話から、梅の話になり、梅を見ながら鮎の塩焼きを
食べた話が出た。
「エッ! 梅って2月ごろじゃないの?」
「そう、まだ寒いときだったわ」
「でも鮎って、6月が解禁でしょう?」
「エッ? そうなの?」
「それって養殖だよ、きっと。」
「いや冷凍にしたものじゃない?」
という話になり、養殖と自然の鮎の違いに話が及んだ。

「自然の鮎は目が鋭くて精悍な感じがするわ。」
「それに口や体に傷があるんじゃない?」
「身も引き締まってて美味しいはずよ。」
「それに引き換え、養殖ものは何処かポッテリしていて身がふくよかだ
けど、どこか平和ボケしたような顔や体つきしてるわよね。」
「味も淡白だし」 ということになった。
と、すかさず家内の声、「それダディーよ」、で一同爆笑。
とうとうボクは養殖人間にされてしまった。
女性群にかかったら何を言われるかたまったものではない。

日曜礼拝のビデオをもう一度見ながら、真剣にイースターが自分にとって
どういうことなのかを分かち合い、恵みに浸っていた雰囲気から、一変して
養殖の話になった訳だが、勿論集会後の楽しい交わりのときだったから、
こんな発言も赦されて良いんじゃないか。
牧師はコケにされて面目まるつぶれだけれど・・・。

・・・“まっ、いいか。”

       「見よ、兄弟が和合して共におるのは、
              いかに麗しく楽しいことであろう。」
                                  聖書(詩篇133:1)

Monday, April 17, 2006

読み聞き

読み書きは小学校から(今はもっと早いか)、とにかく基本的なことを学ぶ。
しかしそれ以前に人は「聞く」ことから学び始める。
赤ん坊は生まれる前からお母さんの声を聞き、生まれては周囲の人の声を
聞き色々な事を学んで行く。

その証拠に幼児が最初に覚える言葉の多くは「否定語」ではないだろうか。
お母さんに散々「そっちに行ったらだめ」「触ってはだめ」「食べてはだめ」
駄目駄目のオンパレード。

聞く事は人間の脳細胞、五感に自然と刻み込まれる。
そこから感情や知性、意志にまで発展してゆく。

昨日は久しぶりに、爽やかな、心に沁みる朗読を聞いた。
イースターの礼拝でK姉に25分間聖書をそのまま一気に朗読していただいた。
とても朗読が素晴らしい方で、その余韻がまだ今日まで残っている。
声、速度、イントネーション、姿勢、などの要素が自然な形で醸し出され、
昨日は一日中何とも気持ちが良く、晴れ晴れとした気分だったが、それが
今日までまだ続いている。
「聴く」ことの重要性を経験した。それにもまして、話し手の話し方が、
どれだけ人に影響するかということも思い知らされた日でもあった。

   「信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から
     来るのである。」 聖書(ローマ書10:17)とあります。

何事も聞くところから始まるとすれば、人の心にまで届く話し方、読み方は
学んでいかなければならない大切なことなのだ。
ただやみくもに読んだり喋ればよいというものではない事は心に深く銘じて
おこうと思った。

昨日の礼拝で一番良かったのは、メッセージがなかったことだろうか。
聖書が最高のメッセージなのだから。

Saturday, April 15, 2006

ハッピー・イースター

今日、私たちの懐かしい友人M子さんが尋ねて来てくれた。
家内のリューマチがひどかった頃、料理も洗濯も出来なく、子供も小さく
て、僕も仕事が一番忙しい年で、どうしようと思っていたところ、ある知
人の紹介で学生だった彼女が夕飯を作りに来てくれた。
貧乏だった僕たちは彼女に充分なことも出来なかったのに、快く引き受け
てくれ一年位通って来てくれた。(確か1時間1ドルでお願いした)

あれからちょうど20年がたった。その間も家内の誕生日には必ずカードを
くれ、ケーキを焼いてくれたり、シュークリームを焼いてくれたり、年に
1、2度は会っていた。

今日会ったのは一年ぶりくらいだろうか。
後一ヶ月でテキサスに行くという。引っ越すつもりだ。
突然のことでビックリしたが、色々と事情がおありで、それも致し方のない
事と受け止めた。

アメリカに来てから、僕たちの周りは常に変わる事を経験する。
日本にいるときは田舎だったので、滅多なことでは周りは変わらなかった。
かく言う僕だってアメリカに来て20回近く引越ししているのではないだろ
うか。

人は来て人は去る。物は作られ、壊されて行く。
どんな物だって永久的な物は周りに一つもない。

明日はイースター(復活祭)。
イエス・キリストが唯一、死に打ち勝ち、死からよみがえられたという日だ。

信じようが信じまいが、厳然としてそこに事実として、真実としてあると
すれば、ここに永遠に変わらないものがひとつだけある。

神の言葉は永遠に変わらないとある。

「たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の
言葉は、とこしえに変わることがない」聖書(イザヤ40:8)

イエス・キリストがお生まれになる750年前に預言された言葉である。

「・・・あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない
種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによる
のです。
『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、
花は散る。
しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。
あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」聖書
(1ペテロ1:23)

イエスキリストが復活した後に書かれたものである。

主の復活をお祝いします。

Happy Easter !!

Thursday, April 13, 2006

億万長者

アメリカでも日本でも早期退職(Eraly Retirement)というのがある。
退職金も多くもらえるし、ベネフィットもついてくる。
退職して第二の人生を歩まれる方も大勢おありだ。
私の周りにも何人かおられ、それぞれが今までと違った自由な生き方をして
おられる。

アメリカに億万長者が890万世帯(8900000)あるという(2005年の資料)。
それも前年より8%も増えているというではないか。
億万長者世帯の平均年齢は58歳という若さだ。私より10歳若い!!
その約半分が(45%)現役を退いて悠々自適の生活を楽しんでいるそうだ。
一方借金の総額も前年より8%減っている。ますます豊かだ。
経済的に豊かな上にもっと豊かになってゆく人達がいる。

私の周りには残念ながらその様な人は一人くらいしか見当たらず、逆の
ケースの方が断然多い。
旦那と離婚されて、住むところもままならぬ。あったとしてもどうやって
家賃を払って行こうか、子供の教育費はどこから捻出するのか、明日の食
べ物さえ心配しなければならない。(大体がご主人に経済力がないか、ある
いは全く何も払ってくれいかである)

しかし、感心するのは、母子家庭で本当に良くやっている。
仕事を2つも3つも抱えて逞しく生きている。
信仰を持って生きて行くという事はなんと強く幸いなことだろうかとつく
づく思わされる。

「・・・何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、・・・何を着ようかと
心配したりしてはいけません。命は食べ物より大切なもの、体は着物より
大切なものではありませんか。
空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもし
ません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていて下さるのです。
あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
・・・心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことができます
か。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、
よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしは
あなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つ
ほどにも着飾ってはいませんでした。」聖書(マタイ6章25節)

そうだ、億万長者が何者か!!と心の奥底でひっそり息巻いている自分がい
る、 多少の羨望がないわけではないことを本音が語っている。

Wednesday, April 12, 2006

おくて人生

魚介類や、果物、野菜、等がよくとれて味の最も良い時、「旬」(しゅん)
「旬のもの」という。それに比べて早くに開花・結実・成熟するものを「早
稲・早生」(わせ)、成長・成熟の遅いことを「晩生・奥手・晩稲」(おくて)
と広辞苑にある。

自然界における稲の成長過程や、いにしえの宮廷行事から来る言葉が現在も
使われ生きている。

人工的な技術の発展で、季節外の野菜や果物が食べられる時代、あまりこの
言葉の有難味が味わえないこともあるが、それでもやはり季節物はその季節
にいただくのが美味しく感じるし、自然の循環の中でのサイクルに生きてい
るのがやはり自然だ。
人間の成長過程にもこういったものがあって、それはそれなりに趣があって
面白い。

どなたの考えか存じませぬが、「世に秀でる者」と願って「秀世」とつけた
この名前がどうもすっきりと行かない人生を生きてきた感がある。
一向に秀でる者にはならないし、それどころか、逆行しているのではない
かとさえ思える人生にはウンザリさせられてきた。

ところが、61歳から第二の人生を牧師として歩みだし、63歳になって最初
のCDをリリースし、この秋には3枚目を出そうとしている。
念願の博士号という学位もいただいたことだし(努力なしの名誉博士号)、 
全く自信はないが、あと2年位(70歳)で本を出版しようかとぼんやり考
え出してきた。なんだか俄然張り切りだしたのだ。

ボクの人生過程は晩生も晩生、ずいぶん奥の方だ。
遅咲き、大器晩成、女性ならさしずめ乳母桜・姥桜(うばざくら)(娘盛り
を過ぎてもなお美しさが残っているちょっと年を召した方)などと表現でき
ようが、それが必ずしも、親が望んだ「世に秀でる者」とは限らない。
しかし、人生後半になってやる気だけは出てきた事は確かだ。

旧約聖書(ヨシュア記14章11節)に出てくるカレブという人は「わたし
は今日すでに八十五歳ですが、今もなお、モーセがわたしをつかわした日
のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな
働きにも、戦いにも堪えることができます。それで主があの日語られたこ
の山地を、どうか今わたしにください。・・・あの日あなたも聞いたよう
に、そこにはアナキ人がいて、その町々は大きく堅固です。しかし、主が
わたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを
追い払うことができるでしょう」。」

まぁ、なんと元気な老人ではないですか。
「おくて」人生大いに結構、老人パワーなるものをどんどん発揮したいと
しきりに願っている今日この頃だ。

Monday, April 10, 2006

家内とのデートで

少し時間の余裕が出来たので、月に1,2度家内と二人で外食する。
家内をキッチンから解放する意味もある。
普段はレストラン・コートのようなところに行ってワイワイガヤガヤと言った
雰囲気の中で食べる。ずらりと並んだ食べ物屋から、自分のオーダーした
食べ物を、テーブルが一杯並んでいる大きな中央の広場に自分で持ってきて
食べるといったごくごく庶民的なところである。
中華、うどん、そば、ラーメン、丼物、トンカツ、カレー、といった比較的
日本食の多いコートである。

ところが昨夜は趣向を少し変えて、日本的イタリヤ・レストランに行った。
ムード音楽とローソク、薄暗い部屋にウェイター、ウェイトレスがサーブし
てくれる本格的なレストラン。それなりの雰囲気の中で家内とデート気分。

ただ、ボクにはどうしても解せないことがある。
あれだけ雰囲気を出している店にもかかわらず、騒々しいのだ。
まるで野球の練習をしているグラウンドか、何処かの中央市場にいるよう
なのだ。

客はぼそぼそと静かな声で話していて静かなのに、店に働いている、特に
男性の声が店の中にがんがんと響く。
「いらっしゃーい!!」と客が入ってくるたびに、お寿司屋さんに入ったあの掛
け声。「ありやとござやしたー」と最後の調子が上がる声。
「ニョッキー、いっちょ~~ぅ」とオーダーを入れる声と「あいよ~」とか
「いょ~う!!」と大声でオーダーを受ける声。
そして時々、何に対してかわからないが、「いやぉぅ~~!!」といった奇声が
店内を行きめぐる。
ありゃ、一体何なんだろう。

しばらく家内との会話をやめて、どんな奇声が飛び交うのか、聞き耳を立て
ていた。
なぜあんなに「威勢」を付けなければならないのだろうか。

そんなことで、オーダーしたライスが最後まで来なかったのにも気がつかな
かった。文句も言わずに早々と引き上げてきた。

家内はスパゲッティーがとても美味しかったと満足してくれた。
そう、味は決して悪くない店なのに。

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、
やかましいドラや、うるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義と
あらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持って
いても、愛がないなら、何の値うちもありません。」
聖書(1コリント12:1)

本質(例えば店の特長―味とムード)をしっかり究めないと全体のバランスが
壊され折角の良さも台無しになりかねない。
私の信仰生活も教会のプログラムも、あれもこれもじゃ焦点がぼやける。
気をつけなければいけないと自らを戒めた。

Sunday, April 09, 2006

ブログ一執念(周年)記念

2005年3月5日がブログ初日。一年続いたぁ~!! 感動!!
ほぼ毎日更新ということで、ボクのブログ1年続いた。
記念したい。

最初は何を書いてよいのかわからなかったが、管理する方から、何でも
一言でよいのだからとの励ましを受け、あまり筋の通らない、一貫性のな
い、あちらに飛んだり、こちらに飛んだりで思いつくまま書いたのです。

始めた当初、ブログの寿命は大体2ヶ月半、それだけ続けば平均を行く
と言われその程度のことしか頭になかったし、日本旅行中は途切れたりで、
最初読んでいて下さった方も、途中でお止めになられた方も大勢おられる
のではないかと思いますが、それでも協力下さって投稿してくださる方も
与えられ、何とか形になっているのは喜ばしいことです。
それに管理してくださっている方が、素晴らしいレイアウトを考えてくだ
さって、すっきりとした形は好感をもたれているようです。

時たま思い出したような反応があるのも励みになっているようですので、
何かしらの反応をいただければ、その気にさせられるので、調子が上がる
かと思います。
古い記事が更新されずにそのまま残っているのは気になりますが。

少し欲が出て来だしています。あと一年続けてみようと思っています。

新しい出発に声援をよろしくお願いいたします。

貧しい者と豊かな者

昨日の話のときに出た話題であるが、アメリカは世界で一番貧富の差が激し
いところらしい。
どこの州だか忘れたが東部の方だ、上流の年間平均収入が20万ドル。
貧しいクラスの人々の年間平均収入が1万3千ドル。
その差が激し過ぎる。しかも平均値である。
アメリカには沢山の金持ちがいて、沢山の貧しい人がいるということ。
沢山の貧しい人がいて、一握りの金持ちがいる国は沢山ある。

物質的に平均的に恵まれている国は日本らしい。ただし心の貧しさは世界一
とのこと。これはマザーテレサが言った言葉。

物の豊かな国は何時も何かの争いに巻き込まれている。
財産相続で醜い身内の争いが絶えない。物に取り憑かれると人が変わる。
国内でも争いが起こり、クーデターだ、内戦だと騒ぐ。
国と国との戦争にまで及んでくる。
自分や自国を守るために、人のものまで奪わなければならなくなるからだ。

「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、
争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」聖書(箴言17:1)

貧しくてもあるものを分け合って、平和な暮らしをするほうがいい。
金持ちほど喧嘩する。

Saturday, April 08, 2006

豪邸の雨漏り

昨日、友人の牧師に誘われて、彼の行っている教会の英語部の方の留守中
犬の面倒を見ておられるという家に一緒に行き、2匹の犬の散歩をお供した。

まぁ、すごい豪邸で海のまん前。後ろの庭からそのまま海に出られる。
殆どの窓が西を向いているので、昼からは家の中がとても明るい。
特に夕日が美しい。私は海に沈み行く夕日が大好きだ。太陽の一番輝くとき
でもあるし、一番大きく見える。あのオレンジ色がかった金色や赤、希望を
あらわす色だそうだ。
私の人生を象徴するものだと、常日頃大言壮語している。

ところがその豪邸、雨漏りがするそうだ。
彼いわく、「家の人達がバケツを持って、雨漏りを受けているのは滑稽だ」
それもそうだろう、何ミリオンもする家の中をバケツを持って走り回るのは、
マンガ的だ(失礼!!)。

南カリフォルニアの家はそんなところが多いようだ。
あまり雨が降らないせいか、屋根がしっかりしていないし、雨漏り対策が
なっていないようだ。
これじゃ、豪邸も台無しだ。

「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の
家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が
押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。
岩を土台としているからである。」聖書(マタイ7:24)

高級感より安心感が大切。

Friday, April 07, 2006

みてくれ

去年、円形脱毛症なるみっともない禿が2ケ所できたことは書いた。
医者に電話をして何とかならないものかと相談もした。注射をする方法も
あるということだったが、普通は自然に生えてくるから放っておきなさない
との処方通りそのままにしていたら、数ヶ月で生えて来た兆しが見え始めた。

禿の方は何とか元どおりになったが、男性特有の頭の天辺が薄くなり始め、
髪が真っ白になってきた。
今度は何とか元通りに黒い髪の毛と頭の天辺を何とかしなくちゃと、わかめ
を始め昆布類などを取り始め、養毛剤(育毛剤)で手入れし始めた。
幸い教会員に化粧品を取り扱っておられる姉妹がいて、その姉妹が提供し
てくれている2種類を朝晩頭に付けマッサージを施している。
それに馬油のシャンプー、リンスが髪を黒くするというので、それを使い
近頃は還元水(酸性のほう)を、洗髪後リンスとして用いている。

一昨日、1ヶ月振りに髪の毛を切ってくれた姉妹が、「安藤さん大分生えて
きたね」といってくれ、また昨夜2ヶ月振りに一緒に食事をした学生時代
の友人が、「ほぅ、フサフサして来たやないか?」、今朝も家内が「ずいぶん
と多くなってきたよ」と3人が立て続けに言ってくれた。
髪の毛はまだ真っ白だが、これはこれできれいに見えるといってくれた人も
いるので、そのままが良いだろう。
心配していたものに希望が見え始め、時間は掛かるが努力の甲斐があった
ことに嬉しさがこみ上げてきて、今朝は何だか晴れ晴れしい気持ちだ。

外見に浮き身をやつしている程度じゃ、まだまだ心の成長がおぼつかないが
だからと言って外見は何でも良いというわけではない。
特に人の前に立つ者は、まず印象を良くしなければならない。

民主党代表に選ばれた小沢一郎氏だって、あの強面(こわもて)を気にして
「自己改革」なんて仰って、イタリヤ映画のせりふを引用した就任挨拶を
されている。パフォーマンスが必要なのだ。

神様は心を見られる方だから、内面はもっとシェイプ・アップしなければ
ならないのは勿論だ。
私の恩師が、「牧師は顔も大切です」と仰った。

内面から来る顔の輝きが出てくれば最高だと願いつつも、今朝もせっせと
養毛剤(育毛剤)を塗り続けている。

「それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、
その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので
自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。」 聖書(出エジプト34:29)

Thursday, April 06, 2006

口から出まかせ

歌っている最中、歌詞を間違えるとどうするか。
とにかく空白はいけないので、なんでも即興に歌詞を作って歌い続ける。
日本語だと何とかなるが、英語だとどうにもならないのが癪だ。

先生を目の前に、一対一で説教の実習をする。これはきつい。
普通、神学校の授業だと、説教を何日かかけて作成し、教室で発表する。
ボクの場合、即興(即席)を要求されるのだ。

「では創世記の12章1節を開きなさい。そこを読みなさい。では始めな
さい。」
これで3分間の説教をすぐに始めなければならない。用意する時間なんて
全くなく、「アァー、エェー、アァー」でハイ3分。終わり。
しかも要求される事は、その話に「起」「承」「転」「結」を入れる。
これはもう神業である。でもその先生はそれを要求するのである。

とにかく沈黙していてはこの場合、「金」ではないので、何でも良いから
喋りだす。
そしてとにかく最後まで喋らす。
話し終わって評価がくだされる。首を洗って待つ時間である。

「まず時間だが、君の場合○分○秒である。時間は守るように。」
3分に満たなかったり、長すぎたりは絶対にだめ。
とにかく時間を過ぎるのは、短いのより厳しく叱られる。あまり短いのも
だめ。2分45秒から3分の間ならOK。

「起承転結がはっきりしていない。」ならまだ良い方。
「君は何を言いたいのかね。さっぱり判らん。」
そりゃそうでしょう、頭の中が真っ白で、提示された聖書の言葉とは全く
関係ない事をベラベラと喋る、何を言わんとするかなんて考えてもいない。
口からでまかせを言っているのだから、喋っているこちらも相当に辛い。

しかし、出まかせを言っているのが、だんだんと意味を成すようになって
くるから不思議だ。練習は何度も何度もするもんだとつくづく思う。

忍耐し、訓練し続ければ何とかなるんだと言う事を経験する。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと
思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは
知っているからです。
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けた
ところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」聖書(ヤコブ1:2)

Monday, April 03, 2006

国際的ズッコケ

ズッコケで思い出したのが、大事な本番で国際的なズッコケを経験した事。
そう、今からもう20年位前になるだろうか、ロサンゼルス市と名古屋市
姉妹都市を祝う晩餐会が、800人ほどのゲストを招き市内有名ホテルで持
たれた。
映画にもなった「将軍」を書いた作家や、LA市会議員や経済界のCEO達、
名古屋市からもお偉いさんが沢山見えられていた。

そこで恒例の日米国家の斉唱がある。それまで何度もその様な行事に駆り
出されていたので、今回もお声がかかり日本の国歌を日本語で、アメリカ
国歌を英語で歌うのである。

Oh, Say can you see ・・・・・と歌い始め、最後のクライマックス、
O say, does that star-spangled banner yet wave
O'er the land of the free and the home of the brave?

最後のbraveは3拍ほど伸ばして終わる。
ところがbraveを「free」といってしまって、しまった!!と思ったが、
もう後の祭り、途中で直すわけには行かない。3拍が一時間くらいに感じ、
終わったとたん、冷や汗がたら~~っと、背中一杯に流れ落ち、コソコソ
と何ともいえない敗北感と悲しさ、いや、屈辱感で家路を急いで布団に
もぐりこんだ。

あれからそう20年以上は経っているだろうか、お声がぴたりと掛からなく
なってしまったのは言うまでもない。
それ以来、晴れがましい舞台に立つことは無くなってホッとしているが
思い出すたびに未だに冷や汗はかき続けている。

ボクのズッコケ・トラウマであります。
暗譜して歌うのに未だに自信がないのは、それが原因している。

人は間違いを犯す、しかしそれを赦すは神だ。

Sunday, April 02, 2006

ズッコケ説教

今日から夏時間の始まり。昨日より一時間時計の針が進んでいる。
第一礼拝が7時45分(昨日の6時45分)からだが、いつものメンバーが
揃っている。第二礼拝でも時間を間違えてこられたのは2人だけ。
皆さん本当に真剣に礼拝に来てくださる。特に子供さんをお持ちの方は大
変な朝だったに違いない。頭の下がる思いである。

第二礼拝の準備中、すでに半数以上が会堂に来ておられたが、ボクは講壇
の上段からいきなり頭から落っこちた。約40センチはある段を2段も踏み外
したのだ。幸い床はジュータンで柔らかく、何の怪我も打ち身もなし。
皆さん総立ちで、心配そうに駆けつけて抱き起こしてくれる。
去年のことがあったので心配されたのであろう。今回のはただのズッコケ。

まあ、あの程度で済んだから良かったものの、思いやられるのが、説教の
ズッコケだ。
皆さんも真剣に来ておられるのだから、毎回が真剣勝負、ズッコケは赦され
ない。いくら拙い説教であっても、神の真理から離れて、人の耳に心地よい
話で終わってはならない。

講壇から落っこちて良い教訓を得た。(格好は悪かったが)
心を引き締める良い機会と捉えて行きたい。

素敵な人生

夕食をともにして、夜遅くまでお話をする機会が与えられ、今までとても
素敵でお洒落なご婦人(まだ30代の若さ)としか知らなかったが、それなり
の波乱万丈な人生にボクも家内もただただ、へぇ~、と感心するやら、感動
するやら、 信じられないような人生を通ってこられたお話に、夜の更けるの
も忘れてしまった。

ビジネスをご自分で経営し、【○○キャンペーン】というのをよくやって
おられ、積極的な生活をしておられる。
その中にあっても何かしらの不安材料はある。それでもその問題から目を
離さず、逃げないで、或いは果敢に戦うということでもなく、ありのまま
を直視しながら、逞しく生きておられる。

独身でお美しくいらっしゃる。生き方も美しい。

生き方の美しいのは、はっきりした目的を持ち、地に足をしっかり付けて
おられるからだ。それにビジョンがある。何よりも素晴らしいのは信仰を
きちっと持っておられること。わからない事は聞きにいらっしゃる。
物の道理と善悪をちゃんとわきまえておられる大人感覚を持った方だ。

聖書の箴言というところに「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼
らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋を
まっすぐにしてくださる。
自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ。
そうすれば、あなたの筋肉は柔軟になり、あなたの骨は潤されるであろう」
とある。
この言葉はビジネスの世界でも大切な基本でもある。
これからもその様に歩んで欲しいと祈る。