Wednesday, April 12, 2006

おくて人生

魚介類や、果物、野菜、等がよくとれて味の最も良い時、「旬」(しゅん)
「旬のもの」という。それに比べて早くに開花・結実・成熟するものを「早
稲・早生」(わせ)、成長・成熟の遅いことを「晩生・奥手・晩稲」(おくて)
と広辞苑にある。

自然界における稲の成長過程や、いにしえの宮廷行事から来る言葉が現在も
使われ生きている。

人工的な技術の発展で、季節外の野菜や果物が食べられる時代、あまりこの
言葉の有難味が味わえないこともあるが、それでもやはり季節物はその季節
にいただくのが美味しく感じるし、自然の循環の中でのサイクルに生きてい
るのがやはり自然だ。
人間の成長過程にもこういったものがあって、それはそれなりに趣があって
面白い。

どなたの考えか存じませぬが、「世に秀でる者」と願って「秀世」とつけた
この名前がどうもすっきりと行かない人生を生きてきた感がある。
一向に秀でる者にはならないし、それどころか、逆行しているのではない
かとさえ思える人生にはウンザリさせられてきた。

ところが、61歳から第二の人生を牧師として歩みだし、63歳になって最初
のCDをリリースし、この秋には3枚目を出そうとしている。
念願の博士号という学位もいただいたことだし(努力なしの名誉博士号)、 
全く自信はないが、あと2年位(70歳)で本を出版しようかとぼんやり考
え出してきた。なんだか俄然張り切りだしたのだ。

ボクの人生過程は晩生も晩生、ずいぶん奥の方だ。
遅咲き、大器晩成、女性ならさしずめ乳母桜・姥桜(うばざくら)(娘盛り
を過ぎてもなお美しさが残っているちょっと年を召した方)などと表現でき
ようが、それが必ずしも、親が望んだ「世に秀でる者」とは限らない。
しかし、人生後半になってやる気だけは出てきた事は確かだ。

旧約聖書(ヨシュア記14章11節)に出てくるカレブという人は「わたし
は今日すでに八十五歳ですが、今もなお、モーセがわたしをつかわした日
のように、健やかです。わたしの今の力は、あの時の力に劣らず、どんな
働きにも、戦いにも堪えることができます。それで主があの日語られたこ
の山地を、どうか今わたしにください。・・・あの日あなたも聞いたよう
に、そこにはアナキ人がいて、その町々は大きく堅固です。しかし、主が
わたしと共におられて、わたしはついには、主が言われたように、彼らを
追い払うことができるでしょう」。」

まぁ、なんと元気な老人ではないですか。
「おくて」人生大いに結構、老人パワーなるものをどんどん発揮したいと
しきりに願っている今日この頃だ。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home